e-Day:コンパックを飲み込んだ超一流ブランドのHP

【国内記事】 2001.09.05

 週明け早々の西海岸から世界に向けて激震が走った。ヒューレット・パッカード(HP)がコンパックコンピュータを買収するという。業界3位のHPが2位のコンパックを飲み込む下克上のような印象もあるが,実際には企業価値ではHPが大きく上回っている。株式交換による買収で,その比率はコンパック株1株につきHPの0.6325株が新規に発行される。通常はプレミアムを乗せることを考えればかなりの開きがあったことが分かる。

 2002年に合併が完了すれば,「コンパチブル」と「クオリティ」を組み合わせたといわれるコンパックの社名は消え,一部のサブブランドとしては残るものの,基本的にはブランドもHPに統一されていくという。

 コンパックファン(あるいはDECファン?)には申し訳ないが,企業価値以上に,そのブランド力においてもHPがかなり格上といえるだろう。何しろ,HPはシリコンバレーの礎をつくった超一流ブランドだからだ。

 フィオリナについて意見が分かれるだろうが,創業者のビル・ヒューレットとデビッド・パッカード,そしてそのあとを継いだジョン・ヤングと,同社の経営陣は産業界のリーダーとしても活躍している。

 ヒューレットとパッカードが,ガレージで産声を上げたのは1939年。コイントスでどちらの名が先にくるかを決めたという。やはりガレージからアメリカンドリームを実現したアップルがApple Iを作り始めたのが1976年だから,実に40年近く前のことだ。

 当時,景気は芳しくなく,西海岸には産業らしいものがなかった。スタンフォード大学の卒業生たちも仕方なく職を求めて東海岸に移っていった時代だったらしい。同大学の教授だったフレデリック・ターマンは,そうした就職難のとき,学生たちに起業を説いたという。ちなみに,このターマンはのちに「シリコンバレーの父」と呼ばれる人だ。

 ターマンの教え子で親友だったヒューレットとパッカードは,その勧めに従い,音波測定用の音声発振器を開発した。創業まもなくウォルト・ディズニー・スタジオが彼らの音声発振器に目を付け,評判は高まった。シリコンバレー初のハイテク企業誕生だった。

 電子計測器メーカーとして第2次世界大戦の軍需向けで潤い,飛躍的な成長を遂げたHPだが,次に大きな転機が訪れたのも,やはり米国経済がインフレに苦しんだ1970年代初めだった。

 HPではこの時期に経営の効率化を図りながら,同時に次の成長期の到来を睨み,研究開発や社内のトレーニングを怠らなかったという。そんな中から生まれたのが,今日の総合コンピュータメーカーの礎となったミニコンのHP3000。1972年に出荷されると,IBMの独占に風穴を開けることに成功した。

 また,私たちの世代では,「HP=科学計算向けの電卓」というイメージが強い。その初代であるHP-35も同じ1972年に発売されている。マニアに根強い人気となったポケットコンピュータのLXシリーズはこの流れを汲んでいると考えてもいい。

 ヒューレットとパッカードという創業者のあとを1977年に引き継いだジョン・ヤングは,RISC技術の導入やUNIXへの投資と革新に向けて次々と手を打った。1988年には東海岸のワークステーションメーカーだったアポロコンピュータを買収し,一躍同市場のトップメーカーに踊り出ている。その後,アポロのエド・ザンダー(現在,社長兼COO)が,データゼネラルなどを経てサンに移籍し,再び巻き返したのはよく知られている。

 15年近くもCEOを務めたジョン・ヤングの貢献は単にHPだけに留まらない。彼は,1980年代半ばのレーガン政権時代に大統領諮問機関としてつくられた「産業競争力評議会」の委員長を務め,「国際競争・新たな現実」と題した報告書をまとめている。彼の名を冠し,「ヤングレポート」として知られているものだ。その中で彼は,技術力で日本や欧州に遅れを取り始めた米国の産業界に警鐘を鳴らした。

 熱心な共和党支持者だったが,1990年代のクリントン政権では科学技術顧問に請われ,彼の提言が米国の競争力回復で花開いたといわれている。

 ついでにこぼれ話をもうひとつ紹介しよう。のちにアップルの共同創設者となるスティーブ・ウォズニアックは大学1年生を終えた1973年の夏,HPの電卓部門でアルバイトし,そのまま居ついてしまった。Apple IがデザインされたのはそんなHP時代だったという。しかし,HPはウォズが生み出したパーソナルコンピュータの将来性を見抜けず,彼は同社を去り,スティーブン・ジョブズと1976年にアップルを設立,やはりガレージでApple 1を組み立てた。HPはみすみす大きなチャンスを逃したといわれている。

[浅井英二,ITmedia]