エンタープライズ:コラム 2003/07/15 21:41:00 更新


Gartner Column:第101回 ナレッジマネジメントとKnowledge Management

ナレッジマネジメントといっても日米で連想する内容がどうも異なるようだ。日本の企業にとって意味のあるKMプラクティスを自らで考える必要があるはずだ。

 ナレッジマネジメント(Knowledge Management)の話となると、内容が込み入ってくると、どうにもすれ違ってしまうことがある。特に米国人と話をする場合、私の英語力は別としても、それ以上にナレッジマネジメントとKnowledge Managementとから想起される内容が日本と米国では異なっていることが根底にありそうだ。

 例えば、ジャストシステムの「GrowVision」に関する同社の説明がWebサイトに掲載されているのでご覧いただきたい。日本でKMを考えてきた人間にとっては、さほど突出したものには思えないではないだろうか。しかし、こういった味わいの説明を米国ベンダーから聞くこともはあまりないはずだ(正確には米国ベンダーの米国人社員からは聞くことがない、というべきだろうか)。

 GrowVisionの説明文では、KMに必要な要素として、「知の体系化と多視点化」「場とコンテクスト」「プラクティスの共有とアクション」が挙げられている。最近米国ベンダーのKMに関する文書の中に「コンテクスト」という表現が再び散見されるようになったことが示すように、情報の解釈と了解が成立する危うさや、解釈の多様性や動的な側面をうまく汲み取る必要がありそうだということについては再度認識され始めているようだ。

 そういった意味で、説明文の中の「知の体系化や多視点化」と「場とコンテクスト」については、それこそコンテクストを共有する素地が整ってきているといっていい。

 しかし、3番目の「プラクティスの共有とアクション」についてはどうだろうか? 言葉としては通じるはずだ。しかし、それが企業や組織の活動にどのような意味を持っているのかという高次の理解に基づいた会話を米国ベンダーのマーケティングやアーキテクトとスッと始められるかというと、そうは簡単にはいかない。

 第一に、だれがプラクティス作りに参加するのか? という基本的なところから暗黙の前提が違っている可能性がある。「現場」の従業員が、仕事の位置づけを自ら認識しあまつさえ自発的にプラクティスの改善提案をする、などというのは米国ベンダーの想定外であるどころか、企業活動の質がそういった要素で左右されること自体がリスクだと指摘されかねない。企業の付加価値活動に必要な知識はなにか、それがどこで作られるべきか、そして、どこに蓄積されるべきか、などといった問題に対する姿勢やプラクティスに差があるとみるしかないだろう。

 KMが持つ意味や、KMがどのような環境に適用されるべきかという点で差があるのであれば、日本の企業にとって意味のあるKMプラクティスを自らで考える必要があるはずだ。そしてそのとき、日本の企業は、どのようなコンテクストに置かれているのかの理解ができ、自律的判断を行うことができるといった意味での「Knowledge Worker」が当たり前の存在だということを前提に据えることができるだろう。

 そこを起点にできるということは、個人の情報空間とコンテクストの表現や、ナレッジワーカーの活動の場であるチームやプロジェクトを支援するための環境という視点からアーキテクチャを構築し得ることを意味しているはずだ。実際、日本のユーザー企業との共同作業を通じて製品を開発している何社かの企業がこのようなアプローチを採用していると解釈することができる(下の関連リンクを参照)。

 このアプローチが、最終的に成功するかどうか、さらにはビジネス的なトレンドとなるかどうかは筆者には予測できない。しかし、このような努力は、ナレッジマネジメント vs. Knowledge Managementという話題を越えて、例えばエンタープライズアプリケーションのアーキテクチャについて視点の多様性を維持することなどにも繋がっていくだろうし、現在主流となっているアプローチが閉塞状態になったときにブレークスルーの可能性をわれわれの内に保持することになるのではないだろうか。

関連リンク
▼オーケイウェブ
▼リアルコム
▼デジタルドリーム
▼日本オラクル
▼オレガディール

[浅井龍男,ITmedia]