Linux Column:Linuxのビジネスモデルとは?(後編)

【国内記事】 2001.07.10

 前回は自動車のセールスマンを例に,一般的な営業原則をお話しした。その原則からいくと,後発組は何やらセールス的な成果を上げることができないような論理に聞こえる。ただ,現実を見ていただいて分かる通り,後発組が先発組を追い抜くことは幾らでもある。

 それはどこにあるのだろうか?

 端的に言ってしまえば,費用対効果だ。新しい製品や技術を導入することにより,コストが低減し,成果が高く上がるのであれば,躊躇なく新製品・新技術を導入するだろう。

 では,Linuxはどうか?

 実は,これはとても微妙な線にあると言える。現在に限らず,コンピュータを使うということは,そのコンピュータがいくらするか,ソフトウェアがいくらするか,ということ以上に,そのコンピュータを使う人間(給料)がいくらするか,その使い方がどれだけの利益を生むか,ということにかかっているのだ。

 シビアに見ていけば,Windows NTやWindows 2000がLinuxに変わったからと言って,劇的にコストパフォーマンスが変化する場合というのは限られてくるのだ。

 しかし,物事というのはコストパフォーマンスだけで決まるわけではない。どんなにお金を積んだとしても解決できないと言う問題がある。それは,現在のほとんどのソフトウェアがブラックボックスである,という点に尽きると思う。

 確かに,多額のお金を積むことによって,あるいは大企業であればマイクロソフトはソースコードを公開したり,特定の問題に対して解決策を提供してくれる。これは資本主義原則に則った対応だ。ただ,ほとんどのユーザーから見れば「持てる者」に対する「えこひいき」にしか過ぎない。

 残念ながら,現在のコンピューティングの範囲というのは,個別対応でカバーできるほどの範囲には留まっていない。T型フォードがもたらしたモータリゼーションの波が自動車を特定層のモノから万人のモノとしたのと同じように,実はWindows 95がコンピューターを万人のモノとし,だからこそその仕組みが広く一般に知られなくてはいけない世の中が確実にやってきているのではないだろうか。

 ここまで,コンピュータ業界を自動車業界になぞらえて話をしてきたが,実は私はコンピュータ業界というのは「農業」に近い世界なのではないかと思っている。農業による生産物の恩恵に預かっていない者はいないが,その恩恵の感じ方は例えば八百屋さんで野菜を買う,といったようにあくまで間接的だ。

 野菜の出来がどうこう,なんてことを話すことは滅多になく,自然とそこに行けば手に入るように社会のシステムが出来上がっている。コンピューターが提供してくれるサービスというのもそれに近いものになりつつあり,だからこそコンピュータ産業に従事している人間は最終消費者(ユーザー)が何も考えないでサービスを利用出来るような体制を整えていく時期にきているのではないだろうか。

 そのときに,自分が扱っているソフトウェアに何か問題が起きた時に,ある特定の,それもごくごく特定の技術者しかその問題に対処できない,場合によっては問題が分かっていたとしても直すことができない,という状況が果たして正常な社会システムといえるかどうか甚だ疑問である。場合によっては,消費者は人体に有害だと分かっている野菜を食べ続けなくてはいけないのだ。

 Linuxのビジネスは儲からない,と言われる。ただ,今までのソフトウェアの「儲け」のモデルが果たして正しいモデルだったと言い張れる人間が何人いるだろうか?

 客観的に見れば,ユーザーに対して不便を強い,必要のないバージョンアップで金銭を巻き上げてきたように思えてならない。モノに対して,流通コストや販売コスト,あるいはそれを美味しく食べられるようにする為の工賃がかかるのは当然だ。

 これまでが異常だったと考えれば,新しい労働対価収入モデルを構築すべき時期にきているのではないかと思えてならない。

[宮原徹びぎねっと]