Linux Column:「共有ソース」とは結局何なのか?

【国内記事】 2001.08.07

 先々週,米国では「Open Source Conference」が開催されていた。時間があれば私も参加したいと思っていたのだが,先週書いた通り2つもカンファレンスの開催に関わっていたので当然不参加とならざるを得なかった。

 ボチボチと同カンファレンスの様子が伝わってきたが,最も注目を浴びたのはマイクロソフト社の「共有ソース」の責任者であるクレイグ・マンディー氏が登場したディスカッションだろう(実際,参加してきた人からも,「何か面白かったものは?」という私の質問にこの件が即答で出てきたので本当に面白かったのだと思う……)。

 内容そのものについては,レポートを見てもらうとして,マイクロソフトは相変わらず「紛い物」を作り出すのが上手だ。マイクロソフトは,結局のところ彼らの原則を変えようとはしない。それはつまり「お前の物は俺の物。俺の物は俺の物」ということだ。

 どこぞのマンガに出てくるガキ大将の論理と同じアレだ。

 コンピュータ業界の秩序が定まっていない,これまでの流れであればそれも良かったかもしれない。だれかがある程度のルールを作り,場全体を牽引し,そこからの報酬にも一番先に手をつける。そのやり口がどうかはともかくとして,それでも良いとある程度許容する人間が許容する範囲でその場を利用していたのは事実だ。

 しかしガキ大将も大人になる。取り巻きも,そうでない連中も,皆一緒に大人になっていく。遊び場になっていた空き地以外の場所も世界に入り込んでくる。そのときの,リーダーたるガキ大将の身の処し方はどうあるべきだろうか?

 隣町のリーダーが博愛精神で人気を得始めたからといって,急に態度を変えるようなリーダーをだれが信用してくれるだろう。上っ面の博愛主義など,だれも信用はしてくれないことは明々白々だ。

 残念ながら「紛い物」で納得するほど,世の中には子どもは多くはない。信念をもってこれまでやってきたのであれば,それを貫き通すべきではないだろうか?

 そうでなければ,これまで自社製品を使わせてきた,そしてその中で不便を強いてきた顧客に対しての背信行為だ。そうやって信念を持って行う企業がいることこそが「選択肢を持ち続けられるかということ」のような気がするのだが,いかがだろう?

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[宮原 徹びぎねっと]