エンタープライズ:コラム 2003/05/12 19:41:00 更新


Gartner Column:第92回 人工知能とe-CRM

e-CRMは、21世紀初頭に姿と名前を変えて再登場した人工知能システムだと考えてもよさそうだ。そして、この流れはe-CRMシステムを超えて、Webサービスに関するガイダンスとかナビゲーションをもっともらしく提供するフロントエンドサービスの提供を目標とし始めるとみても間違いはないだろう。

 人工知能をメインとして扱った記事を久々に見た。ある解析手法を指して人工知能と呼んでいることに思わず唸ったついでに筆者の友人の卒業研究の話を思い出した。1980年代半ばのある日、東北地方の某大学電子工学科で次のような会話が交わされた。

学生A 先生、課題の人工知能ソフトが、動き始めたので見ていただけないでしょうか?

助教授 ん、いいよ。A君ひとり?

 助教授はモニタに向かって「こんにちは」と入力する。10秒後に挨拶「こんにちは」が返ってくる。次に「こににちは」を入力。24秒後「すみません、こににちは、とはなにですか? それは、動物に関する話題ですか?」と返してきたので、助教授は「いいえ」と入力する。そうしたやり取りがしばらく続く。

助教授 A君、これなかなかよくできてるね。じゃ、ちょっと計算させてみようかな。

 学生Bがやってきたので、助教授は、電卓を探すように伝えた。隣の部屋で電卓をようやく見つけ、彼は計算を始める。

助教授 A君、わりと簡単な計算なのに時間かかるね。

学生A ええ、LISPで書かれていますから……

助教授 (数値を入力後、隣の部屋に移動しながら)B君、どう?

 隣の部屋には、HPのプログラマブル電卓とにらめっこしている学生Bがいる。

 彼の話を聞きながらみな大笑いしていたものである。で、これのどこが面白かったのか?

 それは、「人工知能」の定義をみんな理解していたからで、その定義とは「システムと対話したとき、対話の相手が人間であるかコンピュータソフトであるか区別できなかったならば、それを人工知能システムと呼ぶことができる」といったものだ。こうした定義を逆手にとった友人たちと助教授の逆襲ぶりが、当時のわれわれには面白かったのだ。こうした定義が共有されていないと大笑いにはならなかったはずだ。

 ところで、人工知能に関するこの定義は実用主義的なことこの上ない、というのが当時のそして今でも持っている感想だ。確かに、こう定義することで「知識とはなにか?」という深遠で面白いが短期的には極めて不毛な議論を回避できるし、「知的な振る舞いをコンピュータで実現」という分かりやすそうな説明を用意することで研究開発資金の流れを手繰り寄せるためにも役立ったといえる。

 資金が流れた先には、相当便乗的な研究開発プロジェクトもあったにはあったのだが、総体としては、知識表現方式、推論技術、パターンマッチング、自然言語処理などのインタフェース技術など、多くの要素技術の急速な進歩をもたらしたと言える。

 ところで、ハイリターンが期待できる投資領域としての人工知能(AI)は消えたわけだが、関連技術の研究室や開発者までいなくなったわけではない。先に人工知能関連技術として挙げたものはすべてe-CRMの知的あるいは適応的な機能の基礎を提供していることにお気づきだろうか?

 どうやら、彼らは新たな価値提案先をe-CRMそしてWebサービスといった領域に見出しているようだ。顧客に関する知識、顧客との最適な相互作用に関する知識、製品/サービスに関する知識、最適化をはかるための各種の手法、効果的な相互作用を実現するためのインタフェースなど、e-CRMは1980年代の人工知能開発の枠組みと技術を継承しているのに加えて、もっともらしい振る舞いをする対話型システムを目指すといった点でも1980年代にエキスパートシステムを作り上げた精神をも引き継いでいるように見える。e-CRMは、21世紀初頭に姿と名前を変えて再登場した人工知能システムだと考えてもよさそうだ。そして、この流れはe-CRMシステムを超えて、Webサービスに関するガイダンスとかナビゲーションをもっともらしく提供するフロントエンドサービスの提供を目標とし始めるとみても間違いはないだろう。

 しかし、人工知能は「知能とはなにか?」という問いに蓋をして前に進んだのであった。e-CRMでは、どのような問いに蓋をしているのだろうか? あるいは、そのように蓋をされたものなどないのだろうか? 筆者の私見ではあるが、e-CRMは、インターネット/Webというメディアの持つ本質とそれが媒介する人と人との関係性のあり方についての問いかけに蓋をしているのではないだろうか。

 従来からのスポンサーの関心を引くためにマーケティングメソッドの焼き直しが熱心に行われる傍らで、Webというメディアの本質に対する問いや、その豊穣さを引き出すために何が必要なのかについての息の長い研究や思索などが閑却されているような気がしてならない。こんなことを考えていて仕事になることは少ないだろうが、このような問いを発するところからコンピュータ/ネットワークの利用環境に関する新たな展望が開けるのかもしれない。(メディア研究の)マクルーハンがいたならばどのような議論を展開するのだろうか、聞いてみたい。

[浅井龍男,ガートナージャパン]