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インタビュー

MC型カートリッジ作りに人生をかけた男不定期連載、潮晴男の「音の匠」(2/3 ページ)

デジタルオーディオ時代になって、フォノカートリッジの存在感は薄らいでしまったが、それでも熱心なオーディオファンの期待に応える製品は多い。神田榮治さんが手がける「ミューテック」ブランドのMC型カートリッジもその1つ。ミクロの世界を自在に操る男の半生を追った。

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サスペンションワイヤーの引っ張り試験をおこなうための治具

 「LM-H」というモデル名は、LM=Low Impedance Magnet Circuitを、そしてH=High Output というこのカートリッジの特性を現したものだ。合金の内容は秘中なので詳細は伺えなかったが、「ニッケルを主材とした金属で飽和磁束密度が一般的な素材より2倍も高いんです」。そして神田さんはこのコア材にターン数の少ないコイルを巻くことで低インピーダンスの発電機構を完成させたのである。

 MC型のカートリッジに限らずコイルの低インピーダンス化は音のリニアリティを高めるための重要な要素だが、コイルの巻き数が少ないと出力を稼ぐことができないため、ここに設計者のノウハウと感性が反映される。そして神田さんが低インピーダンス化と高出力にこだわる理由もここにある。

 発電コイルのインピーダンスが下がれば電流を多く取り出すことができるし、電圧に対する電流の位相乱れが少なくなり歪の低減が可能になるからだ。LM-Hは発電コイルのインピーダンスがわずか1.3オームしかないのに0.4mVの出力を獲得しているが、すべてはこうした発電機構を持つ磁気回路の成果であり、今までに体験したことのない鮮度感抜群のサウンドを引き出す源になっている。

 そして神田さんはこのカートリッジを自らの手で一品一品製作する。正直なところぼくでさえ老眼も手伝っておぼつかないような細かい作業を、自然体でこなしているところが凄い。達人とはまさにこの人のことをいうのだなと、改めて思った。

神田さん愛用の巻き線機(左)。巻き線機に向かう神田さん。作業中の表情は真剣そのものである(右)

 作業の一端をご紹介すると、まずはスタイラスチップの埋め込まれたカンチレバーの受け入れ検査である。今針先が製造できるメーカーは世界に3社しかない。そのうち2社は日本のメーカーだが、神田さんはその中の1社から供給を受けている。もちろん製造元も厳格な検査の後、神田工房へ出荷しているわけだが、彼はそれだけでは満足せず全品顕微鏡で再検査するのである。


組み上がったカートリッジを測定するためのテストレコードとボルトメータ。このほかにもオシロスコープで波形をチェックする

 その理由は許容偏差をさらに一段高めた範囲に追い込むためだ。丸針の場合方向性はないが、楕円(だえん)針やラインコンタクト針はカンチレバーへの正確なマウントがなされていないと、レコードをトレースする際のトラッキング能力が低下する。神田さんはその僅かな偏差を良しとしないのである。「責任あるカートリッジを作りたいから苦に思ったことはありません」と仰るが、いやはやここまでの妥協なき姿勢には感服してしまった。ミューテックのカートリッジを取り扱うカジワララボの梶原弘希さんから、「海外にも神田さんのファンは多いんですよ」と聞かされていたが、納得の瞬間である。


無垢のボロンを用いたカンチレバーとテンションワイヤー。テンションワイヤーのスリーブに神田さんが編み出した特殊な加工を施し一体化する

 神田工房は前述したように一人で切り盛りされているため、コア材へのコイル巻きからカンチレバーを支持するためのテンションワイヤーの引っ張り検査、さらにはダンパーの装着やテンションワイヤーの勘合、そして接着剤の乾燥工程までを一人でこなす。取材当日は、まさにそうした名人芸を一通り見せていただいたが、「私も年齢が年齢だけにいつまで続けていけるのか分かりません」と消極的な発言をなさった。

 思わず、「えっ」と神田さんの顔を見てしまった。もちろん何十年も先までは無理かもしれないが、これだけ矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃるのなら、もっと頑張ってもらわなければ……。しかしながら達人はそのために後裔の育成も忘れていなかったのである。

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