News 2001年8月31日 11:24 AM 更新

ある社員が語る“ゲートウェイの最期”(2)

突然の社長交代

 話は,2000年3月に遡る。

 当時の社長は,デレク・シュナイダマン氏。1998年,1999年と日本ゲートウェイの成長期を支えた人物である。「決断力があり,社員をやる気にさせるのも上手だった。社員からも非常に慕われていた」(A氏)

 そのシュナイダマン社長が,米国出張から帰国すると,突然,解雇を通告される。

 「向こう(本社)では進退問題について全く話題にならなかったようで,本人が一番驚いていた。表向きには,個人的理由で辞任と発表されたが,社内的には米国本社との確執が原因だと噂になった」(A氏)

 同氏によれば,日本独自で戦略を進めようとしたシュナイダマン社長が,本社と衝突することもしばしばあったという。

 「2000年になって,成長ペースが鈍り始めたのは事実だ。だが,米国でもPC市場の減速が伝えられるようになった時期でもあり,それほど大きな問題になるはずがない。本社は,シュナイダマン社長を切るチャンスを伺っていたとしか考えられない」(A氏)

 シュナイダマン社長の後釜として,米国本社から送り込まれてきたのは,エドワード・J・ナイハイゼル氏。日立GEライティング,ピッカーズ・アジア・パシフィックなどでCEOを務めた経歴を持つ。しかしながら,「PC業界に関する知識や経験はほとんどなかった」(A氏)

 ここから,ナイハイゼル社長が会長に退く2001年6月まで,ゲートウェイの“迷走”が始まる。

人材流出,見えない戦略……

 ナイハイゼル社長がまず取り組んだのが,役員レベル社員の刷新だった。「人事部のトップに,息のかかった人物を連れてきて影響力を持つようになった。その結果,主要ポストの社員はほとんど辞めてしまった」(A氏)

 同氏はこの人事について,「どうやったら,これだけPC業界を知らない人たちを集められるのか,不思議でしょうがなかった」と漏らす。「社内でもそのことに対する不満はかなりあった」(同)

 ゲートウェイは,愛社精神を持つ社員が多いことで知られる。中には,「デルが1.5倍の給料を提示してもおれは行かない」と豪語する社員もいたほどだが,それでも,ナイハイゼル体制に不満を持つ社員の多くが,2〜3カ月の間に会社を去ったという。

 ナイハイゼル体制の迷走ぶりは,これだけではない。正式な発表は行われなかったが「社員の猛反対にもかかわらず」(A氏),ゲートウェイは2000年夏頃,光通信と提携している。

 提携内容は,光通信が展開する携帯電話販売チェーン「ヒットショップ」で,ゲートウェイのPCとインターネット接続サービス「ゲートウェイネット」のセット商品を販売するというもの。ゲートウェイが自社ブランドで展開した「ゲートウェイネットパック」とサービス内容は同じだが,インターネット接続サービスについては光通信のオリジナルブランドということになっていた。

 ビジネスモデルは,携帯電話の販売と同様に,仕切り値で商品を投げ,契約が取れた分だけマージンを代理店に支払うというものだった。「見切り発車なのは明らかで,あっという間に中止することになった。米国本社も了解していたというから驚きだ」(A氏)

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