News | 2003年2月7日 07:32 PM 更新 |
ソニーが世界初のCDプレーヤー「CDP-101」を発売したのは1982年10月のこと。デジタル方式を採用し、ノイズのないクリアな音を実現したCDは、頭出し、リピート、スキップなど、当時主流だったアナログレコードやカセットテープでは考えられない使い勝手も提供。多くのユーザーに衝撃を与えた。
あれから20年。CDは、コンピュータ、ゲーム、映像と、その用途を広げ、CD-R/RWといったファミリーも登場。現在もなお、デジタル時代の記録メディアとして、事実上の標準の地位にある。このCDの開発を陣頭指揮したのが、当時ソニー常務だった中島平太郎氏(現CDs21ソリューションズ会長)だ。氏はCDの生みの親として知られるだけでなく、創生期のさまざまなデジタルオーディオに携わり、デジタルオーディオの神様とも呼ばれる。その同氏に、CDの20年、そして業界の現状と課題について忌憚(きたん)のない話をうかがった(中島平太郎氏略歴)。
20年、30年長く続くものを作りたかった
「何年で廃れるようなものでは困る。できれば、20年、30年持つぐらいのものを作りたいという“熱意”は確かにあった」。
中島氏は、ソニーとフィリップスが共同でCD規格を策定していた当時をこう振り返る。しかし、本当にユーザーに受け入れられるのか、そして、この規格が持つのかという点については不安もあったという。
「長くあってほしいという希望はもちろんありました。しかし、20年はおろか、本当に(何年も)持つのかなという不安もありました。ただ、それだけに(長く持つものをという)デジタルのいろんなディスカッションを、ソニーとフィリップスで開発の段階にやりました。」
そんな甲斐もあってか、CDは急速に普及した。通常、新しい規格が普及するまでかかる期間は、“10年”と言われている。しかし、CDが、当時主流だったアナログレコードのシェアと入れ替わるまでに要した年月は、わずか5年。CDは、通常の約半分という短い期間で急速に普及したわけだ。
「82年は珍しくて売れたんですが、83年は、期待したほどなかなか伸びなかった。それで、どうなることかなと思ったら、84年に『D-50』という4万9800円のポータブルドライブが出て、ここからグッと伸びたんです。その後、87年にCDとアナログレコードのシェアが入れ替わりました」(中島氏)。
CD-Rはレコード協会にコテンパンにされた
「CD-Rのコンシューマーへの普及は、CD以上に考えられないことでした」。
中島氏は笑いながらこう話す。それもそのはず。現在でこそコンシューマーへの普及が進み、一般的に使われているCD-Rだが、CDの複製を作成できるとあって、当時から大きな波紋を呼んだのだ。
「最初にCD-Rのシステムを作って日本レコード協会に持って行ったら、それはもう“コテンパン”。2年前にDATをやってあれだけ痛めつけられたのに、なんで、また来る――というわけです。しかも、DATはコピーだけですが、CD-Rは“クローン”ができる。DATよりもっとたちが悪いというんです」(中島氏)。
CD-Rは、現在も違法コピーの“諸悪の根源”とまで言われ、PCで複製できないようにしたコピーコントロールCDまで登場。CDの売り上げ減の原因の1つとして大きく取り上げられるほど。状況は今とオーバーラップする部分が多いだけに、どういった対応を中島氏が受けたのか目に浮かぶようだ。
しかも、中島氏はCD-Rの前に「DAT」を持ち込んだ“前科”があった。クローンを作るためのシステムじゃないといくら説明しても「信用してもらえなかった」と当時を振り返える。「当時は、(CD-Rメディアも)まだ3000円ぐらいしていましたし、CD-ROMドライブやCDプレーヤーにそのままそっくりかかるということは、それで、オーサリングシステムができるということ。これが大きなメリットですよと説明しても、DATで“悪名”のある僕が持っていくものですからね。信用しないんですよ」(中島氏)。
そこで、中島氏がとった行動は、スタートラボという会社を作って、ライターとメディアを一元管理し、プロ用にのみ販売すること。それが1989年のことだ。「コンシューマーには当面卸しません。メディアもライターも僕が一元管理して、オーサリングシステムなどにのみ出すからそれで勘弁してください――といって、スタートラボという会社を作ったんです」(中島氏)。
27枚しか売れなかった
何とかCD-Rの販売に踏み出した同氏だが、その販売が1年目から軌道に乗っていたわけではない。
[北川達也, ITmedia]
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