News:アンカーデスク | 2003年3月31日 06:48 PM 更新 |
ここ最近のうち、世界的に見て最も重要なニュースといえばイラク戦争だろう。現場から次々に新しい映像が送られ、テレビのニュースでは刺激的なコメントとともに流されていく。
思えばこれら中継伝送ノイズも、数年前とは大きく様変わりしている。以前ならば遠隔地からは同期信号系のアナログ的なノイズが見られたものだが、最近はデジタル特有のブロックノイズに変わった。
さて、事実を知るための手段として、映像は最も説得力のある手段だ。しかしその扱い方によっては、「事実」ではあっても「真実」ではなくなる。事実と真実とは一見言葉遊びのようだが、筆者なりの認識では、真実は事実の後側にあるもので、事実を把握したのちに探さなければ見つからないものだと思っている。
筆者は、テレビの仕事をして長い。今年で“業界デビュー”なんと20周年である。おっさんになったよなぁ。その経験からすると、テレビでは番組を放送するにあたって、常に「スタンス」というものが要求される。すなわち事実をどう解釈し捉えていくか、ということだ。
しかしこれがあまりにも拡大していくと、結果的に民意を特定の方向に誘導してしまう危険性をはらんでいる。
テレビはどうやって作られるか
例をいくつか紹介しよう。
ある番組で、いわゆるコメンテーターという部類に入るタレントが、ヒステリックに戦争反対の極論を唱えるとする。ここ何度か見た光景だ。これを局のアナウンサーが言ったら問題だが、個人であるタレントが言えば「1つの意見」、あるいは「あいつは過激だから」として済ませることができる。
しかしテレビ番組では、事前に仕組まれなかったものは1つとしてないことをしっかり認識しておくべきだ。
そのような番組の背景には、そういう意見を持つ(あるいはそういう演出どおりに喋ってくれる)タレントを探して、スケジュール調整して、連れてくる、という手間がかかっている。これにより、自らが言えない意図を演出によって方向づけていくことができる。
街頭インタビューでも同じことが言える。インタビューではいろいろな意見を採取できるが、その中からどの方向性の意見を、どれだけ、どんな順番で取り上げていくかで、「民意は今こう動いている」という虚構を、編集によって作り上げていくことができる。
ただしここで述べた方法は、「可能だ」ということで、具体的にどの番組がそうだとか、意図してそうやっているということではない。制作者個人個人は、日頃から厳密に公平なものを作っているという意識を持っていて、「偏った報道」などと言われると、頭から湯気を出して怒るのである。
だが戦争のようなデカいニュースが入ってきて、報道局の現場がわーっと沸き立っていくと、知らず知らずのうちにその現場におけるグローバルな方向性、例えばブッシュ憎しとかフセイン憎しといった方向にどんどん呑まれて、ディレクターからアシスタントから衣装さん、大道具さん、美術さん、照明さんに至るまで、そういう方向に沿うものを無意識のうちに作っていってしまうのである。
放送する側の人間は、この高揚感を以て「現場が一致団結して有事に立ち向かった」という満足感を得ることが往々にしてある。しかしそうして放送されたものは、すでに事実を公正に列挙しただけはと言えないし、真実を伝えきったとは言えない。
そしてテレビでやってた、ということだけで視聴者は疑いを持たず、それを真実として受け入れてしまう。
放送人のこだわりが放送をダメにする
筆者よりもベテランの放送人には、「テレビならどんな人にもわかるように解説するべき」という意見を持つ人は多い。すなわちテレビというのは「よーするに何なのよ」という答えを常に提供し続ける使命を持っているというわけだ。
[小寺信良, ITmedia]
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