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「完全な『パクリ』レポート」を作成せよ──大阪市大の課題、その狙い 常識や先入観を逆手に

「完全な『パクリ』レポートとして作成せよ」――ネットや書籍から引用した文章だけでレポートを作成する大学の講義課題が話題を集めている。出題者である大阪市大の増田聡准教授に意図を聞いた。

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 「完全な『パクリ』レポートとして作成せよ」「自分で独自に執筆した文章を一字一句たりとも交えてはならない」――大阪市立大学文学部で示されたレポート課題が話題を集めている。Web情報の「コピペ」(コピー&ペースト)に頼る学生が問題になって久しいが、あえて「パクリ必須」を課す狙いや学生の反応を、同大大学院文学研究科の増田聡准教授に聞いた。

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レポート課題の詳細

 話題になったのは、「授業関係の連絡」として学生向けに掲載された「表現文化論特論」の期末課題。2月10日に増田准教授が自身のTwitterで紹介し、現在までに700リツイートを集めている。

 「『佐村河内事件に思う』という題名を付し、この題名に即した内容のレポートを作成せよ」という課題は特に珍しくないが、執筆条件は「完全な『パクリ』レポートとして作成せよ」。ネット上や書籍に存在する既存の文章を組み合わせ、10カ所以上の異なる出典を明記し、「自分で独自に執筆した文章を一字一句たりとも交えてはならない」のがルールだ。

 ただ何かをコピペすればいいというわけでもない。「論旨や文章が支離滅裂なレポートには単位を認定しないので、上記の執筆条件に厳密に従った上でレポートの日本語文章としての全体的な完成度を高めるよう留意すること」と釘も刺している。

 ネットでは「面白い」「読んでみたい」「出典を明らかにしながら組み合わせるのは勉強になりそう」「普通に書くより難易度高いのでは」という意見がある一方で「何の意味があるのかよく分からない」「自分で考えないで書くのってレポートって言えるの?」など疑問の声も上がり、賛否両論だ。

 「学生のコピペ文章術が着実に向上しているように思える」――現在採点中という増田准教授に本課題の狙いを聞いた。

――「パクリ必須」のレポートを課題にしたきっかけは。

 この授業で始めたのは2010年ですが、同じ形式で最初に行ったのは09年、神戸大学での「表現の政治学」という講義でした。著作権制度の社会史と思想史を当時のメディア環境の変化とあわせて論じる内容で、その前年までは普通のレポート課題を課していました。講義では「メディアの変化が著作権制度の変化を生じさせた」「近年のインターネット環境の普及が著作権制度を揺るがしている」という議論をしているにも関わらず、レポート課題が旧来型の「紙とペンと資料」をベースにしたものであるのは居心地が悪い思いがあったのが直接のきっかけです。

 私が学生のころ、知識は「紙の本」という外部に存在するものでした。しかし「分からないことがあればググる」ことが日常化した昨今の学生にとっては、ネット環境とスマートフォンは、膨大なネット上の知識をある意味で自分の傍らに常に存在させているとも言えます。コピペレポートが大学教師の間で問題になり始めたのは00年代の初頭ではないかと思うのですが、メディア環境の変容が生み出した「学生の必然的な対応」という側面もあろうかと思います。であれば、それを前時代のメディアモラルに則って禁止するよりも、逆手にとってみる方が生産的ではないか、という意図がありました。

――引用元はどのようなメディアが多いのか。

 もちろんインターネットからが多いですが、書物や雑誌、新聞も多いです。全体の比率でいえば7:3くらいの印象でしょうか。ネット上の文章も、新聞社やニュースサイトなど既存のメディアだけでなく、個人のブログを参照していることも多く、そこに優劣を付けているようには感じられません。とはいえ、TwitterなどのSNSはまだほとんどないですね。「まとまった意見の中から一部を引用する」という先入観や発想が強いのかもしれません。

 複数の大学で同じ形式のレポートを課すと、大学によって微妙に異なる傾向があるのも興味深いです。例えば京都大学では、自分が書きたいことを自由に書いて、辞書や辞典など適当な場所から1文字単位で引用元を記した徹底したレポートがありました。限られたルールを逆手に取っていかに自由に遊ぶか――普通はこんな煩瑣な作業をやる気は続かないと思うのですが、「知性への挑戦」と受け取って取り組んだのでしょうか。

――数年間続けてきた中での変化や発見は。

 初期は、自分と似た意見を探してきて不格好に並べる体裁のレポートが多かったのですが、年々洗練され、続けて読むとひとつながりの論旨をもった完成度の高いレポートとなっているものが増えてきている印象があります。ネット検索のリテラシーが年々向上しているとともに、論文や書物のデジタル化、各大学の図書館データベースの充実など、検索できる学術的文章が増えていることも影響していると思います。

 毎年計100人ほどのレポートを見ていますが、同じ「パクリ」でも上手い下手は明確に出ます。ネットで適切な文章を探してくる能力、適切に切り刻み配置する能力が高い学生は、主張する文章として完成度の高いレポートを作成しますし、一般にいう「文章力の高さ」とも相関しているようにも感じます。なぜなら、「パクリ」でよいレポートを作成してくる学生は、感想文もこなれている傾向があるからです。教師としてもそのあたりが面白く、「文章力」とは何か、ということを考えさせられます。

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「佐村河内」でGoogle検索すると約97万件がヒットする(2月16日現在)。

――学生の反応から見る課題の成果は。

 実際にやってみてわかったのは、自分でオリジナルな文章を書かせるレポートよりも、「他人の文章を10カ所以上探す」課題は、論じる対象についての先行する議論を学生が真面目に読む効果があったことです。

 「パクリレポート」と同時に、作成した感想も提出させているのですが、「自分と違った意見がこれだけあることがわかった」という意見がほぼ必ず出てきます。自分が同意できる意見ばかりに囲まれた情報環境に閉じこもることが容易になり、他者の対立する意見を拒絶する傾向がある中で、好む好まざるに関わらず強制的に「他人の意見」を探させるのは、自分の意見のオリジナリティがどこにあるのか、をマッピングする効果を生んでいるように思います。

 「文章を切り刻むことに罪悪感を覚えた」という言葉が散見されるのも興味深いです。まとまった意見を受け入れること、他人の意見を尊重してコミュニケーションすることが学校教育の中で当たり前のように前提とされていることを強く感じます。あえてルールを壊すことが知的冒険や新たな気付きになればと思います。

 当然、「他人の文章で自分の意見を述べる」パラドキシカルな課題は書き手にとってストレスです。やったことがないと「楽勝でしょ」と思う人もいるでしょうが、1度やれば分かります(笑)。どこかで見たような言葉で思いつきを適当に書き上げる方が多分簡単ですが、教育的には意味がないですよね。「自分の文章で書けることは素晴らしい」「もうコピペはこりごりだ」「解放された」「2度としたくない」などの感想も多いです。

 ですが、もう少し深く考えると、我々が使っている「言葉」自体が、他人が生み出したものを模倣しているわけです。全く他人に依存しない「自分独自の言語」を用いて意見を述べても理解されることはありません。では「オリジナルなもの」とは何か、1語1語が全て辞書に載っている既存の言葉を組み合わせてコミュニケーションを行っている「自分」はどのような形で「オリジナル」なのか――学生には、そういった次数の高い問いを考えてもらえれば、と思っています。

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