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離職率と人の育て方の関係小寺信良のIT大作戦(1/2 ページ)

ブラックな職場経験のある小寺信良さんが昨今の人材育成事情を考える。

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 4月も中盤になり、新社会人の研修もだいぶ進んできたことだろう。中にはそろそろ配属という企業もあるかもしれない。以前、筆者が新社会人として就職したのは東北新社の系列会社であると書いたが、今から約40年前のテレビ業界の話は、今の世の中ではなかなか面白いのではないかという気がしている。

 そこは同社の映像編集と音声収録、撮影などを担当する技術者集団だった。当時の会社としては珍しく、かなりきっちり新人研修するところであった。4月の正式入社から1カ月ぐらいは、映像と音声技術について毎日座学だ。筆者ら新人は、それぞれ技術系の専門学校や理系の大学で技術を学んだものばかりではあるが、どうしても学校で学べる技術は現場よりも古い。そうした古い知識を洗い流して新しい知識に入れ替えた後、5月の連休明けから現場へアシスタントとして配属されたものだった。

40年前のテレビ業界の人材育成

 筆者が配属されたのは映像編集部門だったが、現場に入れば全てOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)である。アシスタントは音声担当で編集をサポートしながら、チーフエディターの作業を見よう見まねで覚えていく。当時から高度なスイッチャーや編集機が存在したが、先輩も目の前の仕事でいっぱいいっぱいなので、逐一新人に教えているヒマはない。聞いても「あとでな」「今忙しい」と教えてくれないことも多かった。機材のマニュアルはメンテナンス担当者が保管していて現場にはないので、先輩がやってるのを黙って見て覚えるしかないのだった。

 そんな調子でも、半年〜1年もすればだいたいのことは分かってくる。覚えが早ければ翌年の6月頃には、チーフとアシスタントを交代して簡単な番組を担当させてもらえるようになり、一本立ちの準備が始まる。

 当時の現場は新人に「教えてない」のだから、仕事が滞ることは少なかった。そのかわり、新人が一人前になるまでに時間がかかる。現場の効率が最優先であり、教育効率みたいなことはあまり考えられていなかった。

 もっともそれは、人から時間単価でお金をもらうポストプロダクションだからという理由もある。一方でお客さん側である制作会社のディレクターたちは、待ち時間を利用して新人ADにかなり事細かに仕事の仕方を教えていた。元々ディレクターとは口が達者で面倒見のいい人たちなので、そういう上司をうらやましいと思っていた。こちらの上司は無口で無愛想で目が死んでるし、居眠りすれば30cmものさしで殴ってくるしスリッパは飛んでくるしで、今なら考えられないことだが、40年前の日本はそういうものだった。

 筆者も後輩や新人に仕事を教えてやったという記憶はあまりない。当時のセオリーは「見て覚えろ」であり、それで芽が出なければ「向いてない」ということだった。1980年代のテレビ業界は、バブルが崩壊するまでは日の出の勢いで、テレビマンになりたい若者なら掃いて捨てるほどいたのだ。

 だから新人に対しても、彼の将来のために何か言ってあげるというよりも、自分の仕事の効率を上げるためにできることをやらせるといった接し方だった。失敗しても激しく叱責することはなかったが、「じゃあ手伝わなくていいからそこで見てて」ぐらいのことは言ったことがある。今なら冷たいと批判されるだろうが、自分もそう扱われてきたし、新卒で社会に出て2年3年の小僧に新人を育てろと言われても、どだい無理な話である。

 ただはっきりしていたのは、先輩たちも自分らも後輩たちも、その会社に長く務めるという気はなかったことだ。当時はまだまだ終身雇用当たり前の時代だが、テレビ業界は人の出入りが激しかった。徹夜が当然の現場では、体力的に30歳を過ぎると難しい。たとえ30まで務めても、全員分の管理職ポストはそこにはないのだ。

 筆者の同期入社は11人いたが、2年後には2/3に、3年後には半分ぐらいになっていた。1つの会社で芽が出なければ、別の会社に経験者として採用され、チャンスをつかむ。従って現場には、常に年長の先輩がいないという状態だった。「長老」と呼ばれたベテランエディターも、今考えれば34歳ぐらいだったはずだ。

 そんなこともあり、社員同士の関係は非常にドライなところがあったように思う。

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厚生労働省作成のパンフレット
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