科学技術とSF――2人のSF作家は語る、その過去・現在・未来を藤井太洋×長谷敏司 対談(1/3 ページ)

第35回「日本SF大賞」を受賞した藤井太洋さんと長谷敏司さん。古典と言われるSF作品が生まれた時代、多くの人が夢見た技術がだんだんと実現し始めている現代において、SF作家に求められるものとは何なのか。二人の会話を中心にお届けする。

» 2015年04月07日 07時00分 公開
[宮澤諒eBook USER]
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 2月21日、日本SF作家クラブが主催する「第35回日本SF大賞」の受賞作が発表された。受賞したのは、流れ星予報のWebサービスを担当するエンジニアを主人公に描いた『オービタル・クラウド』(藤井太洋/早川書房)と、過去10年間で書いた3作品と新たに書き下ろした新作を1冊にまとめた短編集『My Humanity』(長谷敏司/早川書房)の2作品。

 eBook USERでは受賞者の二人による対談をセッティング。SF作家という視点から見た科学技術の進歩や、これからのSF作家に求められるもの、2010年に元年を迎えた電子書籍についても語ってもらった。受賞作はいずれも早川書房から出版されたということもあり、対談は早川書房の会議室で行われた。

『オービタル・クラウド』(藤井太洋/早川書房) 『オービタル・クラウド』(藤井太洋/早川書房)
『My Humanity』(長谷敏司/早川書房) 『My Humanity』(長谷敏司/早川書房)


自分の専門分野で危機を突破していくという作品が書きたかった

―― 本日はよろしくお願いします。記事の読者にはお二人をご存じの人も多いかと思いますが、念のため自己紹介をお願いできますでしょうか。

藤井太洋さん 藤井太洋さん

藤井 『Gene Mapper』のセルフパブリッシングでデビューした藤井太洋です。「Gene Mapper」を出版したのは2012年の7月でして、まだ丸3年も経っていない若手作家です。

 光栄なことに、長編2作目の「オービタル・クラウド」で日本SF大賞を受賞することになりまして、大変うれしく思っております。どうぞよろしく。

長谷 長谷敏司です。デビューは2001年12月で、2009年ぐらいからSFの仕事をするようになりました。いまはライトノベルとSFで二足のわらじを履いています。本日はよろしくお願いします。

藤井 長谷さんは作家デビュー後、すぐに専業作家になられたんですか?

長谷敏司さん

長谷 もともと病気持ちだったこともあって、職に就いてなかったので、デビュー後はそのまま専業作家になりました。

 1作1作自分のできることを広げていこうと考えながら書いてはいるんですけど、藤井さんみたいに1作ごとに読者層を広げていこうという戦略はなかったです。

藤井 いやいや、私も読者層を広げる戦略があったわけではないですよ。

長谷 え、そうなんですか。

藤井 もちろん、読んで楽しんでくれる人が増えることは期待しましたけど、1作目の「Gene Mapper」は、もともと友人に読ませるつもりで書いた物語なんです。特にセルフパブリッシング版は。テクニカルタームをほとんど説明せずに物語を書いていたりだとか、実在の言動を元にした映像を登場させたりだとか、読む人が読めばすぐに誰だか分かるような作品になっています。

長谷 SFというと科学者が主人公の作品というのは多いと思うんですが、藤井さんの作品みたいにエンジニアが主人公で、仕事を通して世界を救うというのはめずらしいですね。

『マーシャン・レイルロード(火星鉄道一九)』(谷甲州) 『マーシャン・レイルロード(火星鉄道一九)』(谷甲州)

藤井 谷甲州さんの『航空宇宙軍史シリーズ』が大変好きで、特に技官が活躍する話が好きなんです。あのシリーズの主人公って軍人ではありますけど、エンジニアが多いんですよ。

 『マーシャン・レイルロード(火星鉄道一九)』なんかも、あれは運転手が主人公じゃないですか。そういう、自分の専門分野で危機を突破していく作品が好きなんです。

長谷 最近、テレビでよく町工場のエンジニアにクローズアップした番組が放送されていますけど、藤井さんはそういった時流に乗った作品を書かれていますよね。エンジニアという身近な職業の人が世界を変えるって、大人が読んで夢を持つことができる話だと思います。

藤井 ありがたいお言葉です。

IT黎明期の波にもまれた20代

―― お二人が20代のころは、PCが一般企業に導入され始めた時期かと思うのですが、その中にいてどう感じましたか?

長谷 僕と藤井さんって40歳前半で同じ年代なんですけど、大卒で就職するころって、2000年問題でエンジニアが大量に不足するとか言われてましたね。

藤井 コンピュータが社会をどんどん変えていく、その過程にいました。私が就職した直後に仕事で電子メールが使えるようになって、新しいマナーが登場し始めた時期でもありました。

長谷 大きな変化の中にいて、10年くらいもまれ続けた世代ですね。

藤井 私が就職するときは、まさに就職氷河期が始まった年で、先輩が就活していたころは山のように積まれていた企業の資料も、自分たちのときにはほとんどないような状況でした。

長谷 働き口として一番多かったのが、コンピュータ関係のエンジニアで、自分に何ができるか分からずエンジニアになる人もいたり。

藤井 そうですね。恐らく雇う側も分かってなかった。

長谷 そうやって少しずつ手さぐりで作っていった時期ですね。たぶん、世界中どこも同じ感じだったんじゃないでしょうか。

藤井 ただ、必要となる職種は国によってさまざまでしたね。日本はインターネットの開始が若干早かったこともあって、エンジニアの中でもコマンドラインのプログラムを組める人が多かった。今でもLinuxのサーバを黒い画面で操作できる人が偉いみたいな風潮がありますね、ただ韓国だとその時期はWebサーバを全部Windowsで立ててたんですよ。

 なぜかというと「住民登録番号」とういうのが導入されていまして、あらゆるインターネットの認証に住民登録番号が必要になったんです。SNSだったりブログだったり何でも。で、その認証プラグインがWindowsでしか動かなかったんです。なので、皆「IIS」でサーバを立てていた。当然そのあと、Linuxベースに変わっていくんですが、韓国のエンジニアはのっけからマウスで操作する人たちがすごく多かったので、GUIで操作したがる。Linuxのコンソールでもグラフィックっぽい画面が出るコンフィギュアをよく使うんです。

 なので韓国のエンジニアと仕事すると、テキストエディタで直接設定ファイルを編集すると、嫌がられたりすることがあります。もちろん韓国のエンジニアが技術に弱いということではありません。日本と同じで、優秀な人は優秀です。GUIを使って、ものすごく手早くサーバを立ち上げるのに驚いたことが何度もあります。

 これがさらにフィリピンやタイだと、Webがあるのが前提だったりするので、また違っていたりして、同じ時代を同じように生きていると思ったのに、何か違うぞという違和感がそこに存在する。そういった違和感を作品の中に生かしたいと思っていたりします。

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