エンタープライズ:コラム 2002/10/23 18:40:00 更新


Linux Column:教育コストの問題をどう解決していくのか

オープンソースはこれまで自己責任と自助努力によって支えられてきた。それが美徳とさえされてきた。しかし、現状は異なる。「美徳では食えない」ということだ。解決するにはやはり教育だ。新たにオープンソースの世界に入ってきた技術者に教育を与えるしかない。

 私が代表を務めるびぎねっとでは今月中旬から「びぎねっと トレーニングラボ」といういわゆる教室を開設した。私自身、これまでも色々な形でIT関連の教育に携わってきたが、最終的に自分なりのやり方を一つ具現化したいと考えて、8月のオフィス移転に際して準備したものだ。小さい会社のため、多大なコストはかけられないのでマシンも机も手作りだ(9月17日の本コラム参照のこと)。まあ、それはそれでDIY精神溢れていて楽しいのだが。

 開設後のトレーニング日程は、大変ありがたいことにほぼ毎回満員で賑わっている。とは言っても、ラボはたった4人の小さな小さな設備だからなのだが。

 もう1つの隠れた理由は開設特別記念ということで受講料を下げたこと。受講した方からの声では「安い」「安すぎる」という意見も聞かれて、「しまった、安くしすぎたか」と後悔したりして(もちろん、冗談だが)。

 話が逸れた。

 教育という分野は、Linuxやオープンソースのビジネスモデルの草創期から、ビジネスの柱の1つとして考えられてきた。実際、今までも、そして現在でも幾つかのLinuxに関係する教育コースが存在している。うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。それは別にLinuxに限ったことではないから、とりあえず話としては置いておく。

 トレーニングを開始して改めて感じたのが、現状における教育コストの問題だ。例えば、巷に流れるメーリングリストなどでのやり取りを見ていると、残念ながら十分にコンピューターやネットワークについて教育を受けていない技術者がオープンソースソフトウェアを使用するようになっている。その大きな理由の1つには、その技術者がかかわるシステム案件に十分な予算がないからではないかと推測される。

 その場合、ほぼ必然的に高額な商用ソフトウェアではなく、低価格なオープンソースソフトウェアが採用されるのだろう。価格がソフトウェアの性能を決めるわけではないので、その選択自体は特に問題はない。

 しかし、プロジェクトの予算カットがソフトウェアのライセンス代だけでなく、教育にまで及んでいるのではないだろうかという問題はある。だから、技術者が教育を受けていないのは、「受けたくなくて受けていない」のではなく「受けたくても受けられない」という事実であることにきちんと目を向けなくてはいけない。その技術者には責められるべき点はない。

 オープンソースはこれまで自己責任と自助努力によって支えられてきた。それが美徳とさえされてきた。しかし、現状は異なる。「美徳では食えない」ということだ。この考え方の違いが原因で、両者の間にちょっとした軋轢が生まれているのを私は幾つか目撃している。

 どうするか?

 やはり教育だ。必要であろう知識と技術を、新たにオープンソースの世界に入ってきた技術者に対して提供することだろう。言ってみれば、新しく入ってくる人々は移民だ。それらの人々に対して、こちらのカルチャーを伝えなくてはならないし、場合によってはカルチャーを修正していく必要があるだろう。それらもひっくるめて行われるのが教育の場ではないだろうか。

 理想は高いが、現実は厳しい。やはりコストの問題だ。うまくいかなかったところもそうだろうし、私のところも先行きは不透明。場を維持し、継続していくことが最も難しい。残念ながら今のところ決定的な良策は見つからない。きっと、より良い教育を適正なコストて提供していくことしかないのではないだろうか。とりあえず良いと思ったことをやっていくしかないだろう。果たしてどこまでできるか。

 ここで述べたのはあくまで私の感触で、場合によってはまた違うところがあるのかもしれない。皆さんにも考えていただき、是非ともご意見・ご感想をお送りいただければと思う。このテーマについては、この先少し長いスパンで私も取り組んでいこうと思っている。

[宮原 徹,びぎねっと]