損保ジャパン、Gemini Enterpriseを従業員約2万人に展開 標準機能の制約をどう補っている?:Google Cloud Next Tokyo 26
Gemini Enterpriseを全従業員に展開した損保ジャパン。標準機能やクォータの上限といった制約を、どのような仕組みで補ったのか。チーフエンジニアの城市由佳理氏が講演で明かした。
損害保険ジャパン(以下、損保ジャパン)は2026年1月、全従業員約2万人にGoogle Cloudの企業向けAIプラットフォーム「Gemini Enterprise」を導入した。
損保ジャパンの城市由佳理氏(DX推進部 チーフエンジニア)によると、全社一斉導入に当たって懸念は3つあった。機密情報の漏えいや倫理違反、セキュリティリスクといった安全面の懸念、AIに親しみのない従業員が「何に使えばいいか分からない」まま触れようとしない懸念、標準のプロンプトや機能だけでは個別の業務に活用を広げにくい懸念だ。
3つ目の懸念に対して、損保ジャパンは従業員が自らカスタムエージェントを作成する市民開発で活用の範囲を広げようとしている。城市氏によると、作成・共有を開放するに当たって課題になったのがガバナンスだ。損保ジャパンは、研修に合格した従業員だけに作成・共有を認めるルールを設けた。しかし、Gemini Enterpriseの標準機能では、そのルールの通りに権限を細かく制御できない。
それでも損保ジャパンは、機能を一律に禁止、制限せず、共有機能を従業員に公開している。
全社導入の課題を解決するための「3つの柱」
損保ジャパンでGemini Enterpriseの導入を担ったDX推進部の内製開発チームは、技術検証から構成設定、セキュリティや利用定着の仕組みまでをビジネス部門のメンバーと一体になって構築した。城市氏ら推進チームは、3つの懸念に対応すべく、次の3本の柱を立てた。
それが「安全な利用(ガバナンス)」「利用の定着」「活用の拡大」で、それぞれに技術的な対応を講じてきた(図1)。市民開発の権限管理は、活用拡大を進める中で生じたガバナンスの課題に当たる。
「落ちないこと」より「正しく使われること」
城市氏は、今回の生成AIの導入には、これまでのシステム開発とは異なるアプローチが必要だったと説明する。
「従来の開発で最も恐れていたのはシステムダウンであり、いかにサーバを安定稼働させるかに精力を注いできました。しかしAIエージェントの運用では、開発者にとってシステムの安定稼働よりも『従業員に使ってもらえないこと』、あるいは『不適切に使われること』が最も恐れることでした」
そのため、監視する指標もCPU使用率よりも部署ごとの継続率(リテンション)や利用率、公式ノートブックや公式カスタムエージェントの利用数に置き、生成AIが正しく使われることに最も比重を置いたという。
城市氏によると、日々変化する生成AIツールを全社で一斉に使い始めると、「使い方が分からない」「思った通りに動かない」といった問い合わせがIT部門に殺到する懸念もあった。それでも推進チームは「まずは使ってもらうこと」を重視した。実際に使って何かしら体験してもらえれば、従業員にとって仕事に欠かせない相棒になるはずだと考えたからだ。
推進チームは、社内ポータルにGemini Enterpriseへのリンクアイコンを置いた。Gemini Enterpriseのトップ画面には活用事例集や公式ノートブック集、公式エージェント集へのショートカットに加え、Q&Aまとめへの導線も組み込んだ。すぐに使えて、使い方が分かる入り口を整えるためだ。
ユーザーが安心して使うための2つの仕組み
安全な利用に向けて、損保ジャパンは2つの技術的な仕組みを設けている。
1つ目は、Gemini Enterpriseのアカウント登録を、一定のリテラシーをクリアした従業員に限定したことだ。城市氏は「無条件の開放でなく、全従業員に対してGemini Enterpriseの基本的なリテラシーについてのテストを実施し、合格した従業員のみ登録する仕組みを構築しました」と説明する。
人事データの従業員名簿と、研修データのリテラシーテスト合格者名簿を突き合わせて割り当て対象のユーザーリストを作る。2万人規模のユーザーを扱うため、登録は日次で動くユーザー管理ジョブで実行している。
ここで課題になったのが、テスト合格者の情報とGoogle Cloud環境との連携だ。損保ジャパンは厳格なセキュリティを確保するため、Google Cloud環境をGoogle Cloudの境界保護機能「VPC Service Controls」(VPC-SC)で囲っている。その境界内から、合格者名簿があるGoogleのグループウェア「Google Workspace」の表計算アプリ「Google スプレッドシート」のAPIに直接アクセスするには制約があった。ジョブから、プライベートIPアドレスのみでGoogleのAPIに接続するVPCの機能「限定公開のGoogleアクセス」(Private Google Access)を経由してアクセスしようとしても、Google Workspaceに到達できなかったという。
推進チームは外部のプロキシを経由させることで、VPC-SCによるセキュリティを維持したままGoogle Workspaceとの自動連携を実現した。ジョブはフルマネージドのcronジョブサービス「Cloud Scheduler」を起点にコンテナを実行するマネージドプラットフォーム「Cloud Run」で起動し、スプレッドシートのAPIへのアクセス権限を付与したサービスアカウントでデータを取得して、Gemini Enterpriseのユーザー登録を処理する(図2)。
2つ目の対策は、プロンプトと回答を検査するGoogle Cloudのセキュリティ機能「Model Armor」のテンプレート(Model Armor Template)を利用し、リアルタイムにプロンプト単位の動的なガードレールを構築したことだ。ユーザーのプロンプト入力と、Gemini Enterpriseの裏側で動く「Discovery Engine API」からの回答をスクリーニングする。Model Armorのフィルタは主に次の4種類だ。
- 責任あるAIの安全フィルタ: プロンプトと回答に含まれる危険な表現をフィルタリングする
- プロンプトインジェクションとジェイルブレークの検出: 悪意のあるコンテンツをスキャンしてブロックする
- 悪意のあるURLの検出: 回答に悪意のあるURLが含まれるのを防ぐ。「このサイトを見てまとめて」と悪意のあるURLを添えたプロンプトは、入力の段階で検知してブロックする
- Sensitive Data Protection: 機密データの検査・分類・匿名化サービス「Sensitive Data Protection」を使い、個人情報や機密性の高い情報を変換、トークン化、削除する
システム側で自動的に安全なガードレールを張ることで、従業員が安心して使える環境を構築した。「生成された内容が適切かどうかを確認する最終的な責任は、ユーザー一人一人にあります。リスクをジブンゴトとし、深く認識するマインドセットを醸成しなければいけません」(城市氏)
利用促進と定着のためのモニタリング機能
2026年6月26日時点で、損保ジャパンにおけるGemini Enterpriseのライセンス割り当てユーザー数は2万1475人に上る。平日の日次利用率(DAU)は50%を超え、週次利用率(WAU)は約80%に達した。配布対象の従業員に占める配布率は、2026年1月のリリース時点の90%から、同年6月末時点で99%に上がった。6月時点で毎日利用する従業員は約1万1900人、毎週利用する従業員は約1万7000人だ。
従業員の利用を定着させるため、推進チームはGemini Enterpriseの利用状況を詳細に把握する仕組みを構築した。Gemini Enterpriseの裏側で動くDiscovery Engineの監査ログを、ログルーター経由でデータ分析基盤「BigQuery」に転送する。BigQueryでライセンス割り当て対象のユーザーリストと各ユーザーの部署情報、全従業員に共有しているノートブックの一覧、作成されたカスタムエージェントの一覧を結合し、組織単位のモニタリングと分析を可能にしている(図3)。
モニタリングの指標は3点ある。Gemini Enterprise全体へのアクセス(DAUとWAU、継続率)、個別機能の利用(公式ノートブックや公式カスタムエージェントの利用数)、部署ごとの利用状況だ。城市氏は「部店ごとの利用率から先進的な事例を特定し、好事例として着目しています。また、勉強会など利用促進イベントの効果をデータで追跡し、活動の最適化に役立てています」と述べる。
モニタリングは利用促進だけでなく、システムの障害対策にも活用している。推進チームは監視サービス「Cloud Monitoring」でアラートを3種類用意している。1つ目は、ログから致命的なエラーや利用ルール違反を検知し、コミュニケーションツールの「Slack」や電子メールで担当者に即時通知するケースだ。2つ目は、内部エラーの多発などをしきい値で判定して通知する場合で、単発のエラーでアラートが頻発しないよう設定している。
3つ目が、APIクォータ(APIの利用上限)のひっ迫を予兆検知するアラートで、Discovery Engine APIとModel Armor APIを監視対象にしている。「クォータの条件緩和はGoogleに申請しなければいけないため、時間がかかります。クォータが上限に達してユーザーが使えなくなる事態は、ユーザーのモチベーションを削ぐことにつながります。そうならないよう、予兆を検知して先回りして申請できるようにしています」と、城市氏は語る。
推進チームは利用状況のデータ分析やログ解析に基づく対応策も提案している。Gemini Enterpriseの仕様変更で挙動が変わる場合も、早期に集計・対応して従業員に周知している。
市民開発のガバナンスを監視で補う
損保ジャパンの取り組みは段階を追って進んだ。2025年8月頃にエンジニアによる検証を始め、同年12月にユーザー管理ジョブを開発した。同年12月から2026年1月にかけてはクォータの見積もりを申請している。同年1月のリリース後、2〜3月に公式ノートブックを増やし、4〜5月にカスタムエージェントの活用を広げた。5月にはカスタムエージェントの開発・共有に関するガバナンスの仕組みを開発している。
2026年1月の導入以降、標準のチャットに加えて、AIノート「Gemini Notebook」(旧称:NotebookLM)の共有も早い段階から使われている。業務マニュアルや社内規定などの文書をアップロードしたノートブックを社内で共有し、専門知識の検索や要約に活用している。
次の段階として損保ジャパンが推進したのが、従業員が自ら業務に合わせたカスタムエージェントを作成し、定型業務を自動化する市民開発だ(図4)。作成と共有にはそれぞれ研修を用意し、合格したユーザーだけに権限を与えるルールにした。しかし、Gemini Enterpriseの標準機能では作成権限や共有権限を細かく制御できない。
そこで推進チームは、Discovery Engine APIから取得したデータをBigQueryに集約し、全社ルールから逸脱した共有設定や使い方を自動でモニタリングする仕組みを開発した。
城市氏は「モニタリングによって不適切な挙動を検知し、逸脱したユーザーには事後に是正通知を送る運用としています。機能を一律に制限するのではなく、自由な市民開発とガバナンスの両立を実現しています」と語る。
現状について、城市氏は「AIは日常業務のインフラとなっています。当初は本社中心でしたが、今は各現場で勉強会やGemini Notebookの共有、さらにAIエージェントの開発も進んでいます」と話す。
本稿は、グーグル・クラウド・ジャパンが主催したイベント「Google Cloud Next Tokyo 26」(開催日:2026年7月30〜31日)で損害保険ジャパンの城市由佳理氏(DX推進部 チーフエンジニア)が「損害保険ジャパンにおける2万人規模のGemini Enterprise安定運用を支える技術的アプローチ」というテーマで講演した内容を編集部で再構成したものだ。
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