金融、創薬、材料開発、物流最適化――。スーパーコンピュータを用いても、解決に膨大な時間がかかる問題はいまだ数多く存在する。その解決の鍵として期待される量子コンピュータは、ある特定の計算において、現行のコンピュータで数年単位の時間を要する処理を大幅に短縮できる可能性を秘めており、世界中で研究開発が加速し、実社会への実装を目指す段階へと進化しつつある。
熾烈(しれつ)な国際競争が繰り広げられる中、富士通は独自のアプローチを武器に量子コンピュータの未来を切り開こうとしている。
米Googleによる2019年の「“量子超越”の実証」の発表は特に、量子コンピュータへの投資や開発が世界中で加速するきっかけとなった。富士通も、ここから量子コンピュータ開発に本格的に乗り出すことになる。
そんな中、量子コンピュータの実現方式の一つとして、富士通が注目したのが、「ダイヤモンドスピン」の研究だ。各社が「超伝導方式」の開発を進める中、異例の選択だった。富士通の研究チームは、ダイヤモンドスピンの研究で世界有数の技術力を持つ、遠く離れたオランダ・デルフト工科大学とオンラインでつながり、研究に没頭し始めた。目標は「エラー率0.1%未満」の壁を破り、新方式の量子コンピュータ実現への道を共同で切り開くこと。新型コロナウイルスによる混乱の中、日本とオランダの研究者たちは文化の壁と移動の制約を乗り越え、技術のポテンシャルを信じて歩みを進める。
「主流ではない方式の研究開発には覚悟がいります。しかし世界がまだ注目していないからこそ、挑む価値があります」
河口氏ら富士通の研究チームは、2023年、日本から研究員をデルフト工科大学に送り込み、より連携を深めた。そして2025年3月、ついに、ブレークスルーとなる共同研究成果を生み出した。
これは、量子コンピュータの可能性を信じて開発を続ける富士通と、その研究者たちの道のりを記した物語だ。
河口氏が研究する「ダイヤモンドスピン」――。富士通は超伝導方式の研究に先駆けてなぜ可能性を模索することになったのか。
それは特性の違いにある。いずれも量子コンピュータの演算の基本単位となる「量子ビット」を作製する方式で、超伝導方式は実装のしやすさなどから研究が先行している。しかし大きな計算を可能にするために数万〜数百万といった大量の量子ビットを実装するには、冷凍機の大型化など物理的な制約を解決する必要がある。
一方のダイヤモンドスピンは、ダイヤモンドに開けた“小さな穴”を量子ビットとし、物質的な安定性に優れるという特徴があった。さらに特筆すべき性質は「光で量子ビット同士を接続できる」ということだ。光であれば量子ビットが離れていても自由に接続できるので、スケーラビリティにおいて非常に有利だ。
つまり、基本単位の開発が進めば、大規模化への道が一気に開ける可能性を秘めている。
2023年にプロジェクトのリーダーとなった河口氏は、これまでのキャリアで培った光通信デバイスや脳型コンピューティングの知見を生かし、研究チームと共にダイヤモンドスピン方式への挑戦へと踏み出した。
ダイヤモンドスピン方式の開発を進める中、研究チームの前に立ちはだかった壁が「操作精度」だ。量子コンピュータを実用化するには、計算をつかさどる「量子ゲート操作」のエラー率を極限まで低下させる必要がある。
「90%の精度では足りない。99%でも足りない。目指すのは99.9%だ」
しかしこの目標を達成するには数々の課題を克服する必要があった。高純度ダイヤモンドの開発、環境ノイズを抑制するゲート設計、量子ゲート操作の最適化――。山積する課題に挑戦し続けた。そして2025年、世界で初めてダイヤモンドスピン方式として「エラー率0.1%未満」の操作精度達成を共同プレスリリースとして発表した。この成果は量子コンピュータの実用化に向けた大きな一歩となった。
「精度99%と99.9%はわずかな違いに見えますが、実は大きな差があります。精度が99%の場合は50回のゲート操作で正確性が60%に低下しますが、99.9%であれば95%の正確性を維持できます」
この成果の裏には3つの技術的ブレークスルーがある。1つ目は、炭素13同位体の濃度を大幅に低減させた高純度ダイヤモンドの採用。2つ目は、環境ノイズを抑制するために設計された「デカップリングゲート」の適用。3つ目が、量子ゲート操作の最適化を可能にした「ゲートセットトモグラフィ」と呼ばれる評価手法の採用だ。
世界有数のデルフト工科大学の技術力がベースとなり、これらの技術的成果によって、電子スピン量子ビットで99.99%、窒素核スピン量子ビットで99.999%、2量子ビット間で99.9%という超高精度の量子ゲート操作が可能になった。この精度を実証するため、研究チームは2つの量子ビット間で50回にわたって量子状態を交換する実験を実施。約800個の量子ゲート操作を経ても高い精度で量子状態を予測できることを示した。
「これは単なる数値目標ではなく、実用的な量子計算を可能にするための重要な指標なのです。5年前に共同研究が始まったときは90%程度が世界水準でした。それが99%になり、今回99.9%が達成されました。当初はこれほどの精度向上が本当に可能なのか確信が持てませんでしたが、技術力を信じて研究を積み上げてくれたことで、最終的には理論通りの性能が達成されたことをうれしく感じています」
富士通がダイヤモンドスピン方式に取り組む上で欠かせないパートナーが、オランダのデルフト工科大学だ。
プロジェクトが発足して間もなく、富士通は、量子通信向けにダイヤモンドスピン方式を研究するデルフト工科大学とその量子技術研究機関「QuTech」にアプローチし、2020年に共同研究を開始した。
しかし、プロジェクトはコロナ禍の真っただ中でのスタートになった。研究者たちは直接会うことができず、オンラインでの連携を余儀なくされた。それでも、Web会議ツールを駆使して密なコミュニケーションを取り、研究を進めていった。多くの制約下で効率的な連携を模索し、彼らは少しずつ成果を積み上げていった。
コロナ禍の収束に伴い、研究は一気に加速した。富士通はオランダに研究者を派遣し、デルフト工科大学との密接な連携体制を構築。異なる文化や背景を持ちながらも、共に目標を追い求める中で、研究者たちは真のパートナーシップを育んでいった。
「異文化間の協働には苦労もあります。しかしここにしかない刺激があり、だからこそ得られる成果があります。チームメンバーには本当に感謝しています。新しい技術を開発するのはもちろん大変なことですし、日本とオランダでの共同プロジェクトであるため、どうにもならないものとして時差があります。この制約を乗り越えてダイヤモンドスピンの技術を着実に進展させ、その一端として今回の成果を共同発表できたことは、仲間たちの努力のたまものであると思っています」
河口氏はダイヤモンドスピンプロジェクトの目的についてこう強調する。
「このプロジェクトは、単にダイヤモンドスピン量子ビットの性能向上だけを目指している訳ではありません。量子コンピュータシステム全体として、実用化を見据えてフルスタック開発を行うことにあります」
今後の研究開発には2つの主要な軸がある。「単一モジュール内における量子ビット数の増加」と「モジュール間をつなぐ光接続技術の開発」だ。光接続技術が確立すれば、複数のモジュールを組み合わせた大規模な量子コンピュータの構築が可能となる。
現在のダイヤモンドスピン方式は窒素を用いた“穴”「NVセンター」を量子ビットとして利用している。だが、河口氏は将来的に別の方法で作る“穴”が本命になる可能性が高いと話す。NVセンターは室温での「コヒーレンス時間」(量子ビットの持続時間)に優れる一方、光接続との親和性がそれほど高くないという課題がある。そこで、光接続により適したスズを用いる「SnVセンター」の活用を視野に入れ、さらなる技術開発を進めている。世界初となるダイヤモンドスピン方式の量子コンピュータの稼働を目指して、この2つの軸で研究開発に取り組んでいる。
「われわれの最終目標は、ただ技術を開発することではありません。ユーザーが技術方式を気にすることなく、量子コンピュータを自由に活用できる環境をつくることです」と河口氏は語る。
富士通は超伝導方式でユーザー企業と共同でアプリケーションを開拓しており、将来的にはダイヤモンドスピン方式でも同様の取り組みをする方針だ。
量子コンピュータが実用化される未来はそう遠くない。ユーザー側にも準備が求められる。河口氏はこう提言する。
「量子コンピュータが実用化したときの使い道を、ユーザー自身が考えておくことが重要です。サービスがまだ始まっていない量子コンピュータについても、技術の進展をウォッチして新しい可能性に興味を持っていただければと思います。現在のコンピューティングに不満がある方や量子コンピュータを面白そうだと感じる方は、ぜひ声をかけていただきたいです」
これからも富士通は独自の技術と情熱で未来を切り開き続ける。今回のダイヤモンドスピン方式による高精度量子ゲート操作の達成の共同研究成果は決してゴールではなく、新たな挑戦の始まりにすぎない。
「このプロジェクトはとても楽しいです。プレッシャーはありますが、研究そのものが楽しく、幸せだと思います」と語る河口氏の表情には、研究者としての誇りと充実感、そして未来への希望があふれていた。
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