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更新が途絶えたSNSアカウントは無価値じゃない 死者の“生きた証”に私たちはどう向き合うべきかTwitter休眠アカウント問題で考える(2/3 ページ)

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 インターネットが続く限り、故人のアカウントやページはこれからも確実に増えていく。故人は時代を更新できないから、残した情報は変化する常識にしばしば置いてきぼりを食らう。

 例えば、“ホームページ”作りが流行した1990年代の個人サイトは、プロフィール欄に住所や電話番号、家族写真などをそのまま掲載する例が珍しくなかった。個人情報を守る意識は個人情報保護法が施行された2005年前後から急速に高まっていったが、その前に管理人が亡くなって、現在も閲覧可能なサイトをいくつか知っている。やはり住所等が簡単にたどれるものもある。

 2000年代はブログとSNSが盛り上がった時代だが、現在ほど多様性を尊重する風潮は高まっていなかった。特定の属性に対して差別的ともとれるジョークがほとんど無意識に紛れ込んでいたり、性や暴力の過激な画像が年齢制限なしに載せられたりなど、今の感覚で読むとちょっと角が立ちそうなコンテンツに出合うこともある。「2019年現在の感覚ならアウトだけど、2000年代前半ならまぁ仕方ないかな」という具合だ。しかし、その頃に亡くなった書き手は、もう令和の世の中にあわせてリライトしたり、過去記事を非公開にしたりはできない。

 そうやって過去の時代に普通の感覚で発信されたコンテンツは、先の時代に予想だにしていなかったリスクになることがある。今日投稿した何気ないつぶやきや写真なども、10年後には「これは明らかにNGでしょ」といわれているかもしれない。

 発信者が亡くなってWebサイトが手つかずになっていたとき、そのリスクをサービスの提供元が一身に背負うのだとしたら、なかなか酷な話ではあると思う。けれど、現在もアクセスできるのであれば、現在にあわせたリスク処理が必要なのも確かだろう。

 今を生きているわれわれは、故人のアカウントやページとどう向き合えばいいのか?

 個人的には、残された関係者――遺族や友人、サービス、読者などが緩やかに管理できるような仕組みがちょうどいいのではないかと思う。

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