日本の貴重なデジタル化資料を公開している国立国会図書館デジタルコレクション(デジコレ)。本連載では、デジコレで見ることができるデジタル化資料の中からコレは! というものを探し出し、紹介していきます。
「八朔太夫図」「阿耨観音図」「ほととぎす虹図」。
ん? 葛飾北斎かしら?
なんで当てちゃうんですか。というか北斎の中ではマイナーなものを選んだつもりだったのによく分かりましたね。
伊達にオレンジ文字やってないわよ。
(オレンジ文字って一体なんなんだ……)えー、第2回のデジコレ探索部では葛飾北斎が手掛けたある作品について取り上げます。その前にまず北斎について、簡単にその生涯を説明していきましょう。
文献によって多少情報が違うこともあるから注意してね。
北斎は1760年、現在の東京都墨田区で貧しい百姓の子として生まれました。幼いころから手先が器用で、6歳から絵を描き始め、14歳で木版彫刻師に弟子入りしてその技術を磨きました。18歳になると、写実的な役者似顔絵を得意とする浮世絵師・勝川春章の門下となり、勝川春郎の名で浮世絵だけでなく、加納派の技法や、西洋画の技法を学びます。このころ第1回でも触れた「黄表紙」の挿絵も描いています。
浮世絵師に師事しながらも、その好奇心の旺盛さから他の芸術の技法にまで手を伸ばした北斎は、当然のことながら春章の怒りを買い、破門されることになります。その後は貧乏な生活が続きますが、絵描きをやめることはなく、「画狂人」「雷震」「戴斗」など雅号(画家としての名前)を30回も変えながら絵を描き続けました。なぜ30回も雅号を変えたのかというと、北斎が飽きっぽかったからというわけではなく、新人のふりをすることで世間の人に実力を評価してもらうという目的があったそうです。ちなみに最晩年の雅号は画狂老人卍。漫画雑誌で連載されてそうな名前です。
また北斎は当時としては大変な長寿だったことでも知られています。あの有名な「冨嶽三十六景」を発表したときには72歳、その後も筆を置くことはなく、88歳で生涯を閉じるまで絵を描き続けたそうです。
辞世の句も北斎らしいわよね。 ―「人魂で 行く気散じや 夏野原」― 人魂になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか、という意味よ。
死を前にしても「気晴らし」なんてことを言える北斎、芸術家の鏡のような人ですね。さて、そんな北斎が50代のときに描いた作品がデジタル資料として公開されています。作品の名前は『北斎漫画』(正式には『伝神開手 北斎漫画』)。絵手本と呼ばれるいわゆる画集なのですが、評判を呼び、北斎の死後、明治に入ってからも刊行され続け、最終的には全部で15編の『北斎漫画』が誕生しました。
ここでいう漫画というのは、現代の漫画とは趣が異なります。北斎いわく「気の向くままに漫然と描いた画」。ストーリーのあるものではなく、絵を学ぶ人たちへ向けた、デッサン集のようなものです。ただ、描かれた人物たちのユニークな姿は現代の漫画にも通じるところがあるかもしれません。
北斎のユニークな絵の数々、いかがだったでしょうか。
一生を描くことにささげた北斎だからこそ描ける絵なんでしょうね。
『北斎漫画』はフランスのエッチング画家ブラックモンによって『ホクサイスケッチ』の名で海外に紹介され、ゴッホやモネのような印象派画家たちに大きな影響を与えたといいます。多少形式は違うものの、漫画という存在は今も昔も、日本と海外をつなげるかけ橋になっていたんですね。
それでは、また次回お会いしましょう。
(出典:国立国会図書館)
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