横浜家系ラーメンで“天下取り”目指す「町田商店」の野望:長浜淳之介のトレンドアンテナ(2/6 ページ)
横浜家系ラーメンがブームになって久しい。ついに大手チェーン「町田商店」の運営会社が上場した。またたく間に店舗数を増やしている秘密は何か?
家系ラーメンに開眼した経緯
ギフトの創業社長である田川翔氏は、1982年に千葉県船橋市で生まれた。物心が付いた頃からラーメンが好きで、特に地元の名店である「ラーメンかいざん」の繁盛ぶりを目の当たりにしていた。このことがラーメンビジネスに進む素地になったという。
横浜市内の高校に通っており、青春期には家系ラーメンに精通する環境にあった。ラーメン師を目指すという目標を持ち、家系に限らず食べ歩いた。そして「一番うまい」と確信したのが、横浜市磯子区の国道16号線沿いに本店を構える「壱六家」だった。田川氏は同店に通い詰め、ついにはそこで働くことになった。
田川氏は壱六家で6年間修業し、磯子本店の店長を経て独立。入社した頃には4店だった壱六家の店舗数は、田川氏たちの頑張りもあって8店にまで増えていた。
当時は、1974年に創業した元祖家系の「吉村家」、吉村家の2号店だった「本牧家」、新横浜ラーメン博物館に出店して名を上げた本牧家出身の「六角家」、この3店が家系御三家とされていた。
壱六家にひかれた
しかし、田川氏は家系直系の系譜に連なる店(吉村家が家系と認めていない店も多々あるが)には目もくれず、吉村家にインスパイアされて1992年に創業した壱六家にひかれた。コクがありクリーミーで濃厚なまろやかさが特徴のスープや、元気で活力ある接客も気に入った点だった。かつてのラーメン店には頑固な職人気質丸出しで無愛想な店員が多かったが、壱六家はホスピタリティでも進んだ考え方を持っていた。
これらの思想は町田商店に踏襲され、味づくりや店づくりの基本にもなっている。
なお、壱六家本店は、『栄光の架け橋』などで知られる人気フォークデュオ「ゆず」の地元にあり、2人もよく行った店。ゆずファンにとって、聖地の1つに数えられている。
壱六家から独立した、あるいはプロデュースを受けたラーメン店の系譜は、“壱系”と呼ばれる。町田商店の他、「壱八家」「壱七家」「松壱家」「らっち家」「魂心家」などがあり、今では横浜家系の一大勢力となっている。
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