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2度の網膜剥離、へし折られた腕……負け続けた格闘家・大山峻護が描いたセカンドキャリア大バッシングから学んだ「真っ向勝負」(1/5 ページ)

真っ向勝負で天国と地獄を味わった格闘家・大山峻護。彼が描いたセカンドキャリアとは?

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引退試合で桜木裕司選手と対峙する大山峻護氏(写真:本人提供)

 これまで多くの子どもたちを魅了してきた特撮ヒーロー。幼い頃、日が暮れるまで「ヒーローごっこ」に没頭した経験を持つ読者も多いのではないだろうか。

 いま、筆者の目の前には、ウルトラマンに憧れ、真のヒーローになるために未来を描き続けてきた男が座っている。

 PRIDEやK-1・HERO’Sなどのメジャー団体で活躍した元総合格闘家・大山峻護(45)だ。

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大山峻護(おおやましゅんご)1974年生まれ。5歳より柔道を学ぶ。全日本学生体重別選手権準優勝、世界学生選手権出場、全日本実業団個人選手権優勝。2000年に行われた桜庭和志VSホイス・グレイシーの試合に感銘を受け、アブダビコンバット出場を契機にプロに転身。第7回KOTCでは、マイク・ボークを右ストレート一撃、僅か17秒で倒し、華やかにプロデビューを飾る。PRIDE初参戦となった「PRIDE.14」ではヴァンダレイ・シウバと対戦。その後、両目網膜剥離で長期の欠場を余儀無くされたが、復帰戦となった「PRIDE.21」では強敵ヘンゾ・グレイシーを判定で破る殊勲を演じ、PRIDE初勝利を挙げる。05年3月に「HERO’S」へ初参戦し、ピーター・アーツなど強豪から勝利を収め、10年9月に開催された「マーシャルコンバット」ライトヘビー級タイトルマッチでは見事王座を獲得。12年にはROAD FC初代ミドル級チャンピオンに輝く。14年12月6日、パンクラスで桜木裕司との対戦を最後に現役を引退した。07年には美輪明宏主演「双頭の鷲」で役者としてデビュー。現在は企業向けの人材育成サービスを手がけるエーワルド(東京・新宿)を設立し、格闘技の要素を取り入れたプログラム「ファイトネス」で心と身体の健康を増進するための指導に励む(以下、インタビューカットの撮影:山崎裕一)

桜庭和志がホイス・グレイシーと戦う姿に憧れて

 大山は、ウルトラマンのように強いヒーローになることを夢見て、5歳より柔道を始めた。中学生になると、「平成の三四郎」と言われた天才柔道家・古賀稔彦にウルトラマンの姿を重ね合わせ、古賀が通う柔道の名門私塾・講道学舎に入門し、のちのシドニーオリンピック金メダリスト・瀧本誠ら同期のライバルたちとしのぎを削った。その後も大学・実業団と柔道を続け、全日本実業柔道個人選手権大会で優勝するなどの実績を残した。だが、社会人アスリートになって3年が経った頃に、大山の心に「このままでは幼い頃の夢が叶わずに終わってしまうのではないか』という疑問が芽生える。

 「急に未来が見えちゃったんです。子供の頃から描いてきた“ヒーローになる”という夢が実現できなくなるのが怖くなってしまいました。ちょうどその頃に、東京ドームで、桜庭和志さんがホイス・グレイシーと戦う姿を見て、頭を殴られたような衝撃が走りました」

 2000年5月に行われた総合格闘技イベント『PRIDE GRANDPRIX 2000 』。このイベントを東京ドームの最上階から観戦した大山は、桜庭和志の戦いに強烈な刺激を受け、「大観衆の前で人々に勇気と感動を与えるような選手になる』と決意。すぐさまに総合格闘技の世界へ飛び込んだ。

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2度の網膜剥離 へし折られた腕

 01年2月にプロデビューをしてから14年に引退するまでの14年間、大山は、まさに波乱万丈の格闘人生を歩んだ。大山が戦ってきた相手は、屈強な外国人選手ばかり。ヴァンダレイ・シウバ、ミルコ・クロコップ、ピーター・アーツ、デニス・カーンら、世界的にも有名で実績のある選手たちとしのぎを削った。2度にわたって網膜剥離になり、選手生命の危機にもさらされた。壮絶な戦いの末に腕をへし折られて敗れたこともある。世界の強豪を相手に戦いを挑み続け、幾度となくリングにひれ伏したが、それでも這い上がり続けた。

 そんな中でも、大山にとって転機となった忘れられない試合がある。格闘技の世界で最強一族として有名なグレイシー一族の刺客、ヘンゾ・グレイシー戦だ。大山にとって、この試合は、網膜剥離からの復帰戦だった。大山の復帰を待ち望んだファンも多く、その声を大山も肌で感じていた。だが、当時の大山は、PRIDEのリングで連敗し、さらに長期戦線離脱した後だった。大山が何よりも欲していたのは、勝利だったのだ。勝つことが最優先だと考えた大山は、手堅く戦った末に、判定勝利を収める。すると、そんな大山の消極的な試合運びに対して、ファンやマスコミが、大バッシングを浴びせたのだ。

 「あの時は、人生で一番落ち込んだかもしれません。あの試合で、ただ勝つだけじゃダメなんだということを教えられました。勝ったのに喜んでもらえないことがどれだけ苦しいか。あの試合以降、僕はプロとしてどんな試合でも(ファンに)喜んでもらうという意識に変わりました。それまでも『真っ向勝負』にこだわってきたつもりでしたが、本当の意味で『真っ向勝負』というファイトスタイルを確立したのは、あの試合の後からでした」

 確かに大山の戦績を振り返ると、『真っ向勝負』にこだわってきたことがよく分かる。33戦のキャリアのうち、判定決着はたった2試合しかなく、その他の試合は全てKO勝ちか、KO負け。大山は、常にやるかやられるかの勝負を繰り広げてきたのだ。

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大山の両手の小指は曲がってしまっていた。どれだけ壮絶な戦いの中を生きてきたかが分かる
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