高橋名人が明かす「裏技」誕生秘話 私が「冒険島」になった理由:高橋名人の仕事哲学【中編】(4/6 ページ)
かつて「名人」と呼ばれた男がいたことを覚えているだろうか――。ハドソンの広報・宣伝マンを務め、「16連射」で名高い高橋名人だ。在職中は「名人」として全国各地を渡り歩き、テレビゲームの普及活動に務めただけでなく、「裏技」「ゲームは1日1時間」という言葉の考案者の一人でもある。中編では、いかにしてファミコンの「名人」になったのか、「裏技」という言葉はどうやって生まれたのか。その誕生秘話をお届けしよう。
「おもちゃ」と下に見られたファミコンソフト
――名人とファミコンとの出会いはどんなところだったのでしょうか。
ファミコンとの最初の出会いは、83年8月ぐらいに副社長がファミコンを持ってきたことです。マリオブラザーズとか、ドンキーコングとかをモニターに映してみんなで遊んだのを覚えています。まだファミコンが発売されて1カ月ぐらいのころですが、ソフトが30万本ぐらい売れているということで、「すごい」という話になったんです。当時のパソコンソフトはヒットしても1万本が関の山でした。
1万4800円という、ファミコン本体の安さも衝撃的でしたね。当時NECのPC-6001なんか9万円もしましたから。一方でソフトの値段は4000円で同じぐらい。これは絶対にやらなきゃいけないだろうと思いましたね。
――パソコンソフトメーカーだったハドソンがどのようにゲームメーカーになっていったのでしょうか。
ハドソンはもともとシャープのMZシリーズのソフトを作っていたのですが、「Hu-BASIC」というOSの開発もしていました。そこで任天堂がファミコンの周辺機器「ファミリーベーシック」を出したいということで、ファミコンに部品供与もしていたシャープからハドソンに依頼が来ることになりました。
このとき、私は宣伝部に異動して間もないころだったのですが、最初の仕事が『ファミリーコンピュータ・ファミリーベーシックがわかる本』の制作でした。初めての本作りの経験でしたね。
その後、「ハドソンでもゲームを出そう」という話になり、第一弾として「ロードランナー」と「ナッツ&ミルク」というゲームの開発が始まります。
――ハドソンのいち早い「転向」を、他のパソコンソフトメーカーはどのように見ていたのでしょうか。
このころはまだ、他のパソコンソフトメーカーさんはファミコンを「子どものおもちゃ」と下に見ていましたね。83年の12月にソフトメーカーさんたちが集まる忘年会に社長と一緒について行ったことがあるのですが、あるメーカーの社長さんから「なんでおもちゃに行っちゃうんだよ」と言われたのを覚えています。
ただ、こうした見方も翌年には変わりつつありました。84年7月に発売した「ロードランナー」が100万本を超える販売本数となり、他のパソコンメーカーの参入も盛んになっていったのです。
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