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94歳・人間国宝「野村万作」を“未来へ運ぶ” 狂言を広げる映画『六つの顔』の顧客接点

伝統芸能である狂言を、より多くの人に、より長く楽しんでもらうにはどうすればいいのか――。現在公開中の人間国宝・野村万作を追ったドキュメンタリー映画『六つの顔』によって、いかにして伝統芸能を届けようとしているかを、監督の犬童一心氏と、企画・制作を担当した万作の会取締役の野村葉子氏に聞いた。

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 伝統芸能である狂言を、より多くの人に、より長く楽しんでもらうにはどうすればいいのか――。その課題に正面から取り組んできたのが、94歳の人間国宝・野村万作や、野村萬斎による狂言の公演を手掛ける株式会社「万作の会」(東京都練馬区)だ。

 2021〜23年にはNTT西日本と「狂言のデジタルトランスフォーメーション」を目指して連携。マルチアングルVR映像による体験型コンテンツや教育現場でのデジタル活用など、ICTを駆使して狂言の普及・活用・伝承を推進してきた。 2025年4月に開催した「祝祭大狂言会2025」の『MANSAIボレロ』では、NTTコンピュータ&データサイエンス研究所が開発した音響XRなども活用。狂言の伝統と最新技術を融合させる取り組みを続けている。

 そうした数々の試みの延長線上にあるのが、現在公開中の野村万作を追ったドキュメンタリー映画『六つの顔』だ。監督の犬童一心氏と、企画・制作を担当した万作の会取締役の野村葉子氏に、映画という手段でいかにして伝統芸能を届けようとしているかを聞いた。

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映画『六つの顔』監督は『ジョゼと虎と魚たち』『のぼうの城』の犬童一心氏。アニメーションを『頭山』山村浩二氏、ナレーションをオダギリジョー、監修を野村万作と野村萬斎が務める(『六つの顔』シネスイッチ銀座、テアトル新宿、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中(C)2025 万作の会)

「守る」だけでは届かない 映画とDXで挑む「伝統のアップデート」

 狂言とは、能と共に発展してきた日本の伝統芸能の一つだ。能が謡や舞を主体とするのに対し、狂言はせりふが中心で、庶民の日常生活を題材にしていて、人間の滑稽さを笑いを通して描く演劇である。

 今回の映画は650年以上にわたり受け継がれてきた「狂言」の第一人者であり、芸歴90年を超える今も、現役で舞台に立ち続ける人間国宝の狂言師・野村万作を追ったドキュメンタリー映画だ。映画は、ある特別な1日の公演に寄り添い、万作が磨き上げてきた狂言「川上」と人生の軌跡に迫っている。

 制作のきっかけになったのは、万作の「自分の芸、狂言の舞台を、映画として記録に残したい」という言葉だったという。企画を進めたのは、万作の三女であり万作の会で取締役を務める葉子氏だ。万作の意志を葉子氏が受け止め、最初に相談したのが、萬斎が主演した映画『のぼうの城』を監督して以来、狂言や能を見に通うようになり、継続的な付き合いからNHKの番組も制作した犬童氏だった。葉子氏はいう。

 「狂言の舞台を見てもらうことをゴールとするならば、その足掛かりとして、映画が狂言を知らない人にとっての入り口になればいいなと考えています。能楽堂に足を運んでもらうための架け橋ですね。それが、この映画の役割だと思っています」(葉子氏)

 つまり、映画を「狂言を身近にする」ための一つの手段にするという戦略だ。

 「映画という手法は、多くの人にとって狂言より親しみやすく手軽に見られるものだと思います。能楽堂ではなく映画館で見られることによって、少し敷居が低くなるかもしれません。映画で狂言を一度でも見たことがあれば、お住まいの近くで公演があるとなったとき『じゃあ足を運んでみようかな』と思っていただけるかもしれませんし、見ていただける年齢層を下げられる可能性もあります」(葉子氏)

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野村万作の三女であり、万作の会の取締役を務める野村葉子氏

 犬童氏は、その葉子氏の戦略を具体化する。狂言を見始めてから15年ほどだという犬童氏は、能楽堂という舞台空間が持つ、映画的な可能性に長年ひかれてきたと話す。

 「能楽堂の舞台は、橋掛かりと本舞台という全く異なる二つの構造が一つの空間に共存していて、とても面白いのです。さらに、舞台の四隅に立つ柱が『見えない部分』を意図的に生み出している。これが観客の『見たい』という欲望を刺激し、想像力を掻き立ててくれるのです」(犬童氏)

 犬童氏は、古典の装置を映画の言語によって読み替えられると確信した。カメラワークという映画ならではの演出を駆使し、能楽堂が持つ独自の魅力を映像で再現したのだ。伝統と現代の融合によって、狂言の世界に新たな入り口を作り出している。

 万作の会は、冒頭で紹介したNTTとの連携に象徴されるように、「守る」だけではなく「伝えるために、時代に合った試みをいとわない」という姿勢を貫いている。今回の映画もまた、伝えるための戦略の一環だ。葉子氏はこう語る。

 「芸を支える精神や美意識は変えない一方、皆さまに伝える方法は時代に合わせてアップデートする。その勇気があってこそ、受け継ぐ力が生まれるのだと思います。その意味ではドキュメンタリー映画ではありますが、とても豪勢な野村万作のプロモーションビデオのような、多くの人にご覧いただきやすいものにできたと感じています」(葉子氏)

顧客起点で再設計されたビジネスモデル

 万作の会は、野村万作を中心に公演を手掛けている。さらに一般の人に狂言を体感してもらうワークショップに加え、大学やカルチャースクール、専門学校などで講師として指導を行い、狂言の普及活動をする会社だ。ただ万作の会にとっても、映画を作るのは初めての試みであり、まさに“右も左も分からない”挑戦だったという。

 葉子氏は「(映画には)ズブの素人が突然、一流の制作者の方々と映画を作ることになった」と振り返る。しかも制作を手掛けたのは国内有数の制作陣を擁する制作プロダクションのロボット(東京都渋谷区)だ。犬童氏は語る。

 「僕が呼ぶスタッフはちゃんとした人たち。何事も簡単には前に進めません。僕自身も『簡単には撮らないでほしい』とスタッフに伝えていました。カメラ位置をテストして、全員でコンテをチェックして、ライティングも普段とは違うものを使っています。そんな大変な映画に、何も知らない葉子さんが関わるのは、本当に困難だったと思います」(犬童氏)

 特に葉子氏が苦労したのは、映画制作の「あと」だったという。制作に加えて権利処理・試写・宣伝・配給……まさに映画ビジネスは完成してからが本番なのだ。費用も意思決定も次々に発生する。その都度、手探りで対応するしかない。

 葉子氏は「当初は映画ができたら上映できるものと思っていたのですが、“でき上がったから終わり”ではありませんでした。観客がいて初めて映画は完成する。観客に届けるために、製作費とは別に費用をかけて『配給』をすることも今回初めて理解し、挑戦することになりました」と話す。

 犬童氏も、映画制作にあたり、万作の会からも依頼された「100年後でも価値のある映画」を目指したという。先述したように狂言や能といった古典芸能は「守るもの」「継ぐもの」とされる一方、それだけでは観客は増やせない。芸がどれほど高尚でも、それを知らない人には届かないからだ。

 「映画は実は、完成したソフトがあるだけでは完成していません。見る人がいて初めて成り立つものです。そして、見る人によって体験価値も変わります。さらにそれを後世に伝えて広がるものにしなければなりません。今、いる人たちが見てくれて初めて、100年後まで続くものになるのです」(犬童氏)

 犬童氏の志を受け、映画の制作・配給・広報を支え具現化したのは、普段は万作の会の事務方を担う「少数精鋭のチーム」。狂言を愛してやまない女性数人が、“役割を分け、走りながら整えていった”という。外部の一流スタッフと組むときほど、内部の意思決定と現場力がものを言う。その上で葉子氏と犬童氏は、映画というフォーマットの中で、その実装においても一つ一つ工夫を重ねていった。

 古典芸能の最大の課題と言えば「言葉の難解さ」だ。そこで映画では現代語字幕を導入。犬童氏が携わる形で、初心者でも物語を理解しやすくする仕組みを整えた。これはいわば「顧客接点の再設計」だ。古典芸能を、未経験層へと開く第一歩としている。

 「やっぱり楽しく見てもらわないと、届くコンテンツにはなりません。その意味で、いろいろな方になじみやすく親しみやすい現代語訳になったと思います。中には現代語訳が入っていることに気付かない方がいらっしゃるほど。自然な形になり、この工夫が奏功しました」(葉子氏)

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「大変な映画に、何も知らない葉子さんが関わるのは、本当に困難だったと思う」と話す犬童氏(左)と葉子氏

クラファンが生み出した新たな顧客接点

 大きな課題となった制作資金の調達は、葉子氏によれば「万作の会、初の試み」だったというクラウドファンディングも活用した。単に資金を集めるのではなく、支援の過程に価値を置いたという。「クラファンに慣れた」支援者が宣伝もしてくれ、SNSを通じた情報拡散や口コミ効果を生んだ。ここでは、ファンを巻き込むマーケティング戦略が実践されている。

 「クラファンをはじめご支援、ご協賛をいただいた方々には本当に感謝しています。狂言が好きな方々には、われわれが発信する情報をキャッチしていただきやすい一方で、これまで接点がなく狂言やわれわれの活動を知らなかった方々に届けるのは非常に難しかったです。広報にかけるお金もない中ですから……。それを考えると、初めてクラファンを実施したことによって枠を広げられました。狂言に詳しくなくても、クラファンに慣れていらっしゃる方々から、多くのご寄付をいただきました。『万作の映画を待っている人』がこれだけいるんだということも実感しました」

 最終的には、目標金額600万円に対して2561万円の支援額を集めることができたという。

 『六つの顔』は、上映展開を首都圏のアートシアターに限定せず、地方都市にも広げている。全国60館ほどで上映予定だという。その背景には、戦後から続けてきた狂言の地方巡演のネットワークがある。万作の会がこれまで築いてきた資産を、映画という新規プロジェクトに応用することで、上映網を広げられたのだ。

 全国での上映を後押ししたのは、長年にわたり万作の会が、地方で積み重ねてきた狂言の普及活動だった。さまざまな協力を惜しまない支援者は、数十年かけて築かれた関係資産の証だ。葉子氏は語る。

 「いきなり映画を作りましたということではなく、これまで長い時間をかけて地道に続けてきた関係が最大の資産なんです。積み重ねてきた信頼があるからこそ、新しい挑戦を支えていただくことができました」(葉子氏)

 制作の現場では犬童氏が「芸術作品としての完成度」を追求する一方で、葉子氏たちは「どう届けるか」を考え続けた。その手腕は、クラファンやこれまでの信頼関係を生かす形で、作品を「市場に流通させる仕組み」に結びつけた点に表れている。

 犬童氏も、葉子氏の活動に賛同する。「いま(映画を)見る人がいることが重要なのです。そして見た人が伝えていくから、100年後にも価値が残る」(犬童氏)。この“観客起点”の発想が、以後の判断を貫いた。

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「万作の会」初のクラファンでは2561万円の支援額を集めることができた(READYFORのWebサイトより)

 犬童氏はこの映画が、ビジネスパーソンにもヒントを与えるものだと強調する。

 「現代の職場では、すぐに答えを出すことが求められます。例えば映画も、封切ってすぐの反応によって上映数などが決まってしまいます。一方で、狂言に流れる時間は、その逆でもあります。“答えを先送りできる余裕”があるのです。(大ヒットしている映画)『国宝』も長い時間をかけて歌舞伎をする青年の話ですね。時間をかけて探求することによって、ヒットが生まれることもあるのではないでしょうか? 能楽堂には、その考え方があるように感じています」

 また犬童氏は映画の中で「単に芸を見せるのではなく、なぜその芸が成立しているのかという問いへの答え、芸の巧みさを表面的に捉えるのではなく、日々の積み重ねを映像によって可視化したかった」と語る。90年にわたる万作の稽古が沈殿した所作の美――その蓄積は、短期成果に追われるビジネスの現場にも、強い問いを投げかけている。

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90年にわたる万作の稽古が沈殿した所作の美――その蓄積は、短期成果に追われるビジネスの現場にも、強い問いを投げかけている(『六つの顔』シネスイッチ銀座、テアトル新宿、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中(C)2025 万作の会)

“文化を運ぶ”ための環境整備 権利処理という課題

 作中には貴重な映像資料も使われている。だが、日本における権利処理の壁は高い。

 フランスのように、文化芸術のアーカイブを公共目的で利活用しやすい制度が整うと、継承が加速する一助となりそうだ。その意味で葉子氏は、文化芸能を継承するための課題として「文化を“皆で運ぶ”ための環境整備が必要」だと訴えていた。文化資産を“使える”状態にすることが、産業としての継承力を高めていくからだ。

 万作の会や葉子氏の取り組みは、古典を現代にどう届け直すかという「顧客接点の再定義」に直結している。これは文化領域に限らず、あらゆる業界にとって参考になる視点だ。

 普及やブランド構築にあたっては、ひとつの手法に依存するのではなく、映画やVR、ワークショップといった複数のチャネルを組み合わせることで、多面的に顧客や観客との接点を広げた。こうした手段の多層化は、ブランド体験そのものを豊かにする戦略でもある。

 日々の活動や小さな積み重ねによって形成される「関係資産」も重要だ。日常的な関わりや信頼の蓄積は、やがて新規プロジェクトや大規模な挑戦を支えるビジネス的基盤となる。テクノロジーや企画力と同じくらい、人とのつながりや信頼関係が成果の土台をつくっていくのだ。

 犬童氏は「伝統芸能である狂言は、600年以上も続いています。だからこれからも続くものと思い込んでしまうこともありますが、実際のところ、たとえるなら“”ガラス細工”を運んでいるようなものだと思っています」と課題を指摘する。

 「いつ落として割れてしまってもおかしくない。それをしっかりと受け継いでいくためには、狂言を演じ、継いでいく存在だけではなく、それを支え、未来へ運んでいく存在が不可欠です。その精神や文化を次の世代に渡す。その運ぶという意識を共有しないと、狂言というガラス細工は、壊れてしまう可能性もある。映画の制作過程では、そういう緊張感も覚えました」(犬童氏)

 葉子氏は「万作の孫世代にも注目していただけるように、映画を届けていきたい」と話す。

 「古典芸能の良さは、その役者が育っていく過程を見られる部分にもあります。そして見ている人も共に育っていく。60年後、70年後、(万作の孫の狂言師)野村裕基の次の世代でも狂言が広まっていけるように、今後も活動していきたいです」(葉子氏)

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左から野村裕基、野村万作、野村萬斎、犬童一心監督(『六つの顔』シネスイッチ銀座、テアトル新宿、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開中(C)2025 万作の会)

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