マス広告がスルーされている決定的要因とは?(2/2 ページ)
日本社会に「情報流通」という言葉が流行したのは、1998年ころ。そして10年が経過したわけだが、果たして「情報流通」の量はどのくらい増えたのだろうか?
さらに消費情報量が約64倍になったからと言って、その消費した中身は自分がほしい幅の狭い情報だけを選択して、深く濃くなっていたり、やたらめったら広く浅くなったり、「薄いものまたは幅の狭いもの」になっているだけなのかもしれない。
情報流通量の莫大な増加を推し進めている「パーソナルメディアに限った選択可能情報」は、いつでも、どこでも取得しにいける「検索+格納可能な情報」であることを私たちは知っている。そうなると、情報鮮度への感覚が鈍る。情報取得と行動の不一致が起こる。情報を故意に無視しているというより、幅広い情報に対して「無感覚」になっている受け手を増加させている。
情報は、関心が生じたときに「こちらから取得しにいくもの」という意識が定着したら、マス広告のような、プッシュ型の広告情報はさらに意義をなくすことになる。広告は目には入っているけど、無感覚であるがゆえ無意識にスルーしている。テレビはついているけど、広告は届いていない。
自分にとって興味のない情報には、有益でない情報には、無意識にオフスイッチを入れる。そんな機能をパーソナルメディアは、情報の受け手である私たちに付加させたのだ。耳には、入ってきているけど、情報として処理されない。目には、入ってきているけど、自分の中で情報化されない。視聴率でも、視聴質でも、広告効果を送り手の論理で測定・予測できない時代になっている。結局は動いたかどうか、行動に結びついたかどうか、費用対効果=ROIこそが、選択可能情報量爆発的増加の時代の広告指標となるしかない。
「編集の価値」が相対的に高まる
インターネットを開けば格納されているはずであろう広告コンテンツをテレビで真面目に視聴して、行動へと結び付けていくような、従順な視聴者などもういない。垂れ流される広告を文化だというクリエイティブ呆けもお払い箱だろう。
消費情報量を遥かに超える選択可能情報量約532倍の世界では、情報の受け手にとってその情報を結びつけて、有意義なものに見せようとする「編集の価値」が相対的に高まる。そこで重要なのは、情報を拡げて伝えるのが得意な「映像」よりも、情報を編集して集約していく「言葉」である。
タイトルの時代。コピーの時代。シナリオの時代。無駄にならない、無視されない、そんな言葉を紡ぎ出すセンスが、広告に、企業経営に何よりも必要な時代になったのだと考える。(中村修治)
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