検索
インタビュー

批判されても、批判されても……貧困ビジネスに立ち向かう理由35.8歳の時間・湯浅誠(2/6 ページ)

年越し派遣村の村長・湯浅誠――。彼のことについて、詳しく知っている人は少ないかもしれない。自分のためにだけに生きるのではなく、生きることが困難な人たちのために生きる男が、過去を振り返った。

PC用表示 関連情報
Share
Tweet
LINE
Hatena

 中南米に足を踏み入れたとき「貧しい国だなあ」という印象を受けました。ペルーやボリビアで食べたパンはとても固く、おいしくありませんでした。貧困地域も多くあり、ブラジルに着いたときには「とても豊かな国に来たなあ」と思いましたね。ブラジルにも貧困地域がたくさん残っていましたが、ペルーやボリビアなどと比べクルマはきれいで、パンもおいしかった。いまは貧困問題を解決するために活動をしていますが、当時はまだ「貧しい国だな」という印象を受けただけ。そこから国内での活動に結びついたわけではありません。

ホームレスへの支援活動


渋谷でホームレスの支援活動を行っていた

 結局、大学4年間はボランティア中心の生活を送っていました。大学4年生のときに90単位を取得しなければいけないのに、60単位しか取れませんでした。なので留年。そして5年生のときに「大学院に行って、将来は学者になろう」と決めていました。大学院では日本政治思想史を専攻しましたが、そのころからホームレスの支援活動を始めました。

 渋谷で、ホームレスの人たちに雑炊を作って、配ったりしていました。それまで渋谷には遊びに行ったことはありましたが、ホームレスの人がたくさんいるということを知りませんでした。わたしの視界に彼らの姿は入っていたと思うのですが、脳みそまできていなかったのでしょうね。そのころのわたしは見たいものしか、見ていなかったのでしょう。

 だんだんホームレスへの支援活動に力を注ぐようになり、大学院には通わなくなっていきました。結局、博士論文は書かなかったので、大学院博士課程の単位取得退学となりました。

相手との“接点”を見つける

 30歳(2000年)のころには、「貧困層(当時は『生活困窮者層』と呼んでいた)が増えてきているな」と感じていました。貧困層はホームレスだけではなく、DV被害者だったり、障がい者だったり、多くの人たちの間に広がっていましたね。


(出典:もやい公式Webサイト)

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

ページトップに戻る