3月31日の卒業式――福島県相馬市立磯部小学校:東日本大震災ルポ・被災地を歩く(3/3 ページ)
あまりに広い範囲が被害を受けた東日本大震災。死者・不明者が万人単位という甚大な被害の裏には、数字では言い表せないひとりひとりの「あの日」と「今」があります。本連載では実際に現地を取材し、被災地の現実をレポートしていきます。
春休み、ディズニーランドに行くはずだった
3月26日に訪れたとき気になる子どもがいた。一人で遊んでいた大和田茜ちゃん(9)だ。「勉強してるの?」と声をかけると、茜ちゃんは「理科が好き」とこたえてくれた。「春休みにディズニーランドに行くはずだった」とも教えてくれた。しかし、地震の話になると口を閉ざした。
私は茜ちゃんともう一度会いたいと思った。そのため31日に訪れたときも茜ちゃんを探した。私が茜ちゃんを見つけると、すこし照れた様子で、「今日は楽しかった」と話してくれた。この日はいつもよりも1時間早く目覚めたという。そして、地震の時のことを教えてくれた。
「地震があった時、泣いて、音楽室のピアノの下に隠れた。帰宅後は津波の心配から車で高台へ逃げた。そして、津波に家が飲み込まれるのを見ていた」
子どもなりにいろんなことを考えて、悩み、そして我慢している避難生活。多くの子どもたちが地震のことをまだ思い出す。地震や津波、さらに放射能による避難で、大人でさえ正常な心理状態ではなくなるかもしれない。大人の姿は子どもにも伝わる。ただ、子どもたちを癒す側の大人たちに余裕がないように感じた。
この震災が大規模になると分かったとき、私の頭に浮かんだのは、子どもたちの心のケアの問題だった。1995年の阪神大震災を取材した時、小学6年生(当時)の女子児童が、いつまでも地震におびえ、熊のぬいぐるみを手放せないでいたことを思い出したからだ。そのためこの震災を取材するのなら、子どものことを中心にしようと思った。
「相馬を離れたくない」。子どもたちは一様に口をそろえる。大人たちの中には「相馬を離れるかどうかを迷っている」といった声も聞くが、子どもたちは震災体験をして、よりふるさとへの思いを強くしたのかもしれない。「またこの子どもたちに会いに来よう」。私はそう思った。
なおこの日、同館で磯部中学校でも終業式が行われた。
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く(2):南相馬市、原発20キロ圏内に入る(前編)
渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール
1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。
著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「悩み、もがき。それでも...」を刊行中。
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