再び、被災地へ。何ができるかを考える:相場英雄の時事日想(2/2 ページ)
東日本大震災が発生してから、6カ月が経とうとしている。被災地を支援するために、ボランティア活動に携わるのもひとつの手だろう。しかし筆者の相場氏は、地元民との交流を続けることで長期的な支援になるのでは、と考えている。
「目が疲れた」
まるかを訪れたあとは、筆者がお世話になった方々を市内各地に訪ね、同市雄勝町に向かった。途中、当欄で取り上げた雄勝町水浜を経て(関連記事)、同町で奇跡的に被害が少なかった大須地区の民宿に到着した。
漁師宿として、新鮮な魚介類を提供することで知られる民宿だが、保有していた船は津波で流されたという。現在は共同で漁を行っているといい、筆者が訪れた際も殻付きのウニや地魚を提供してくださった。
ただ、この宿の皆さんからも震災に関する話を聞き、改めて被害の大きさを知った次第だ。もちろん、家族は絶句していた。
石巻市周辺、岩手県南部の沿岸地域をクルマで移動する間、日頃減らず口ばかり叩く息子の口数が極端に減った。理由を尋ねると、「目が疲れた」との答えが返ってきた。
取材で何度も訪れていた筆者の目には、ガレキ撤去が進み、復興に向けた作業が着実に進捗していたと映っていたが、初めて訪れる息子には、地盤沈下した港や破壊され尽くした住宅街の姿はショックが強かったようだ。
筆者の家族旅行は時期尚早とお叱りを受けるかもしれない。ただ、実際に現地に赴き、地元の方々と接しなければ分からないことがある、その思いだけで旅行を強行した。自分の目で確かめ、ほんのわずかでも被災者の痛みを共有することができれば、家族ぐるみでの長期的な支援につながると考えたのだ。
筆者は取材と並行してわずかばかりの物資を被災地の友人や知人に運んだだけで、ボランティア活動に参加したわけではない。ただ、被災地の状況と被災者の心情の一端を報せたいという思いが強かっただけだ。
今後も現地を訪れ、再興を果たした企業の商品を買い、現地の商店での買い物を継続し、微力ながら支援を続けていくつもりだ。
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