パクリ発見器が社会を変える!?
最新のヴロニプラーク・ウィキを使えば、過去の論文などの盗用が一発で暴き出される。図像や音楽についても、いずれ同様。電子書籍化が進めば、数十年、数百年も前のパクリまで、すべて世間にさらされることになるだろう。
著者プロフィール:純丘曜彰(すみおか・てるあき)
大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科哲学教授。玉川大学文学部講師、東海大学総合経営学部准教授、ドイツ・グーテンベルク(マインツ)大学メディア学部客員教授を経て、現職に至る。専門は、芸術論、感性論、コンテンツビジネス論。みずからも小説、作曲、デザインなどの創作を手がける。
2月9日、ドイツのメルケル首相の側近であるシャヴァン教育研究相がクビになった。理由は、33年も前の学位論文における盗用疑惑。彼女だけではない。2011年3月には、グッテンベルク国防大臣も同じ理由で辞めさせられて、米国に逃げてしまっている。この調子で、政治家たちが次々に討ち取られている。
重要なのは、その発覚の過程だ。それらはヴロニプラーク・ウィキという剽窃発見器によって見つけられた。これは論文をぶち込むと、たちどころに既存の論文や書籍との平行箇所を洗い出し、DNA鑑定のようにバーコードで表示して、盗用疑惑率をはじき出してくれるというもの。まあ、専門の学者なら、「こいつ、怪しいな」と思うやつを見かけたことはあるだろうが、よほど個人的な恨みでもなければ、いちいち手間をかけて検証したりしない。だが、これを使えば、一発で分かる。
このシステムは現行稼働はドイツ語と英語だけだが、すぐにほとんどすべての言語で使えるようになるだろう。ドイツでは特に社会的地位に学位が必須であるために、まずは著名政治家が狙い撃ちになっているが、遠からず世界中の一般の研究者の論文もすべて精査される。当然、小説やエッセイ、ノンフィクションなども。それも、新規の著作だけではない。スキャナーOCRや電子図書化の発達で、数十年、数百年も昔の盗用が暴き出されることになる。
これは大変なことだ。先述のように、著名な作家や学者の中にも、前から疑わしいとウワサになっているやつらは少なくない。ただ、業界内での権力のおかげで、つつかれずに済んでいるだけ。しかし、このパクリ発見器は、そんなもん知ったこっちゃない。放り込めば、まったく無慈悲に機械的な結果を出す。たとえ個々の箇所は出典明記のフェアな引用でも、その比率が過半ともなれば、それは原典の方を主とする注釈集にすぎず、オリジナルの研究とは認めがたい、ということになる。著名な人物ほど、大きなスキャンダルになって、その地位と名声から引きずり下ろされ、踏みつけられることになるだろう。
容易ではないが、このシステムは、画像や音声、さらには演技や演出のようなものにも応用できるはず。実際、すでに車のナンバープレートの読み取りは実用化されているし、顔認証システムもかなりの精度になってきている。図表などは、すぐに簡単に引っかかるようになるだろう。マンガや音楽でも、シロウトが似てると思うようなものは、どれくらい似ているか、盗用の疑いをすぐに計算できてしまう。それどころか、誰も似ていると思っていなかったようなものまで、類似性を関連づけていくことができる。
もちろん、似ている=盗用、ということではない。だが、これまでわざわざ調べないと分からなかったことが、自動で出てきてしまう。似てばかりいるとなれば、亜流のそしりは免れえまい。ましてドンピシャでは、言い逃れもできまい。作家や学者、政治家や経営者、アーティストで過去に盗用をやっていたやつらは、おびえて、とっとと手じまいを考えた方がいいぞ。このパクリ発見器で社会的に炎上してからでは収拾もつくまい。
もっとも、このパクリ発見器、大きな穴がある。事実の有無自体は検証できない。だから、他の文献のどこにも出ていないような、まったくの嘘八百は、逆に引っかからない。実際、ウィキペディアなんかでも、ビコリム戦争(「ビコリム戦争―Wikipediaから削除された「非実在戦争」とは?」)のような怪しい記述は恐ろしいほど多い。だが、それも、人物や年代、その他の意味論的整合性までチェックできるようになれば、さらにゴロゴロと過去のインチキ研究、イカモノ記事の数々が堀り起こされることになる。言うまでもないが、暴く側がいかにあれ、常に誠実に自分自身の言葉を語るように気を付けようぜ。(純丘曜彰)
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