ITは、いま──個人論
「せっかくあるんだから」――50代主婦のチャレンジ
しわが目立つようになった手で一文字ずつ打ち込む。画面とキーボードを交互ににらみながら、十数行の文章を、30分かかって仕上げる。関西のある街で花屋を切り盛りする56歳の兼業主婦。週に数回、ワープロソフトで文章を書く。
「まさか、私がパソコンを使うようになるとはね」。
ほんの数年前まで、自分がPCを使うなんて考えたこともなかった。彼女の家には、元SEでコンピュータ好きの夫が買ったPCが15年以上前からあり、8年前からインターネットにもつながっていた。しかし、使っていたのは子ども達だけ。夫も「最近のコンピュータは昔のとは違うから」と買うだけ買って、自分からは使おうとしなかった。
彼女は言う。「パソコンは、私には関係ない物だと思ってた」。
「私がやるしかない」
それが一転したのは、夫が大学で園芸の講師を始めた4年前。講義用レジュメを、ワープロソフトで作らなければならなくなった時だ。
夫は「最近のコンピュータは分からん」と言い、PCに触ろうともしない。代わりにPCの得意な義弟が、夫の手書き原稿をワープロソフトで打ち直し、メールに添付して送り返してくれることになった。誰かが家でメールを受け取り、添付ファイルを開いて印刷しなくてはならない。頼みの綱の子どもたちは、大学入学とともに家を出てしまっていた。
「私がやるしかない」。
当時52歳。チャレンジが始まった。
まずは義弟に家に招き、電源の入れ方やマウスの使い方、メール受信法、印刷方法まで一気に教わった。とても覚えきれなかった。
義弟が帰ってからは何度も電話して、操作法をしつこく聞き直した。電話の向こうで言葉を尽くして説明されても、画面のどこの話をしているのかなかなか分からない。
「印刷の方法を聞いたら、『プリンタのマークをクリックするんだ』って言われたんだけど、どれがそのマークかわからなくて。プリンタマークの絵、うちのプリンタとぜんぜん違うんだもん」。
1時間以上話してやっと一つ理解する。毎回そんな調子だった。
苦労して印刷した原稿には、たまに誤字があった。誤字を見つけると彼女は、小さな白い紙を貼って隠し、上から手書きで修正した。それを知った義弟、原稿はPC上で直接修正できると、Backspaceキーと文字入力の方法を教えてくれた。
「自分で文章を変えられるなんて想像もしなかったから、すごくびっくりした」。
修正の仕方を覚えると、自分でも原稿を作れるのではと思うようになった。義弟に聞きながら、短い文章に挑戦した。キーボードの文字をひとつひとつ探して、人差し指だけで打ちこんだ。十数行の原稿を作るのに何時間もかかった。
「難しいけど、便利だから」
あれから4年。同じ量の原稿を、今は30分で仕上げられる。最近、はがき作成ソフトの使い方も習い、セール用の販促はがきや顧客の住所録まで自分で作れるようになった。Webブラウズの方法も少し覚えた。
「新種の植物の育て方も、ネットなら簡単に検索できてとても便利。あと、地図検索も便利ね。配達先を見つけるのがすごく楽になったわ」。
PCのメールはいくら教わっても使いこなせなかったが、携帯電話のメールは1日10通以上やりとりしている。携帯メールのおかげで、子どもや親戚、友人たちと密に連絡が取れるようになった。
「今、何よりも楽しいのはメール。電話と違って、時間を気にせず送れるのがありがたいのよね」。
しかし彼女にとって、携帯もパソコンもまだまだ難しい。携帯メールは新規作成の方法が分からないので、いつも返信機能で送っている。携帯のネット機能は使ったことがないし、何ができるのかも分からない。
PCの文字入力だってまだ不安だ。「ぁ」や「ぃ」など、小文字の出し方を忘れてしまい、大文字を縮小コピーして貼り付けたこともあった。WebブラウザのURL入力窓とYahoo!の検索窓を最近まで混同していて、URLをYahoo!の検索窓に何度入れても目的のページにたどり着けず困った。
「本当、分からないことだらけ」
50を過ぎた頃から、新しいことがなかなか理解できず、覚えられなくなったという彼女。「もう年よね」と笑う。
──あなたにとって「IT」とは?
「難しくて分からないことだらけだけど、上手に活用できたら便利で楽しいもの」。
だからチャレンジはやめない。今度娘が帰省するときには、デジカメの使い方と画像印刷の方法を教えてもらうのだという。写真大学を卒業した彼女。好きな写真をたくさん撮って、家で印刷したいと意気込む。
「せっかくあるんだから、活用しないともったいないじゃない」。
インターネットとPCが爆発的な普及を始めて10年がたとうとしています。この間、万能論から悲観論まで、ITをめぐってさまざまな議論が交わされてきました。
ITが私たちの何を変え、何が変わりつつあり、何を変えないのか。広くITにかかわる個人に焦点を当て、“ITのいま”を考えていきます。随時掲載。
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