IBM PCから41年、そして現在へ PCとは何だったのか、改めて考える:【最終回】“PC”あるいは“Personal Computer”と呼ばれるもの、その変遷を辿る(1/3 ページ)
23回にわたって連載してきた「PCの変遷」。最終回は、Intel vs. AMDの競争激化によるRISC陣営弱体化と、Arm、RISC-Vの台頭、そしてPCアーキテクチャとはいったい何だったのかという問題を考えます。
昔ながらのIBM PC、PC/AT互換機からDOS/Vマシン、さらにはArmベースのWindows PC、M1/M2 Mac、そしてラズパイまでがPCと呼ばれている昨今。その源流から辿っていく連載もついに最終回!
- 第1回:“PC”の定義は何か まずはIBM PC登場以前のお話から
- 第2回:「IBM PC」がやってきた エストリッジ、シュタゲ、そして互換機の台頭
- 第3回:PCから“IBM”が外れるまで 「IBM PC」からただの「PC」へ
- 第4回:EISAの出現とISAバスの確立 PC標準化への道
- 第5回:VL-Bus登場前夜 GUIの要求と高精細ビデオカードの台頭
- 第6回:VL-BusとPnP ISA PCの仕様をMicrosoftとIntelが決める時代、始まる
- 第7回:Intelが生み出したさまざまなPC標準規格 Microsoftとの協力と対立
- 第8回:USBが誕生したのは「奥さんのプリンタをつなげる手間にキレたから」 USBの設計当時を振り返る
- 第9回:Modern PCの礎、PCIはどう生まれ、いかに成立していったか
- 第10回:PCのスケーラビリティを決定付けた超重要コンポーネント、地味にスゴイ「APIC」の登場
- 第11回:ラップトップPCのための基礎技術が生まれるまでの紆余曲折
- 第12回:PC互換機はIntelだけではない ジョブズのいないAppleが進めたPRePとCHRP
- 第13回:Intelがメモリ標準化で主導権を失うに至った“やらかし”について
- 第14回:Intelのさらなる“やらかし”と、Intelが主導するPCアーキテクチャの終わり
- 第15回:カセットからフロッピー、そしてハードディスクを制御するSASI、SCSI、IDE、ATA、SATA――さまよえるストレージ用インタフェース標準を語る
- 第16回:BIOSからUEFIへ BIOSはなぜ終わらなければならなかったのか
- 第17回:もうPCIでは遅すぎる さらなる高速化目指すPCはPCI Expressへ
- 第18回:PCはネットワーク接続できて当然」になったのはいつから?
- 第19回:PCの在り方をMicrosoftとIntelが規定した時代 PC 9x/200x System Design Guideとは何だったのか
- 第20回:64bitへの移行に20年を要したIntelの挫折 Itaniumの大失敗とOpteronへの敗北
- 第21回:チップセットの誕生と隆盛、そして消滅へ
- 第22回:UMAからの脱却 そしてNUMAに入る
前回で、ハードウェア/ソフトウェアともに、ほぼ現在のPCにかなり近いところまで近づいてきた感がある。IBM PCが世に出た1981年から数えて41年程であるが、この間にPCの立ち位置は大きく変わってしまった。
1981年当時、PCというかIBM PCのアーキテクチャは、本格的なビジネス向けというにはかなり厳しかった。
もちろん小売業者が紙と電卓で経理処理を行っていたのを表計算一発でプリントアウトまでできるレベルにするには十分な能力であったが、メインフレームで経理処理などをやっていた大企業のシステムを置き換えるには不十分極まりなく、仮にPCを100台入れたとしてもメインフレーム1台の代替にはなり得なかった。
当時のメインフレームといえばIBMはSystem/360に代えてSystem/370を本格的に展開している時期であり、1981年といえばSystem/370-XAに準拠したIBM 3081が出荷開始されていた。アーキテクチャの観点で言っても、IBM 3081とIBM PCの間には超えられない壁がいくつも存在していた。
この構図が変化したのはRISC CPUの興隆である。まずはSun MicrosystemsがSPARCを1986年に発表、同年MIPSもR2000を発表、R3000を1988年に投入する。当初はUNIXワークステーション向けとして採用されたRISC CPUは、すぐにメインストリーム向けに向けて高性能化・大規模化に向けてその性能と能力を引き上げていく。
これは同時にこれまでビジネス向けの中核に据えられていたメインフレームのポジションを次第に浸食していく。実際1990年代といえば、筆者もそれこそメインフレームベースで構築されたシステムを、UNIXワークステーションベースのクライアント・サーバモデルのシステムで置き換えるなんて仕事をしていたりした。
実際このあたりからメインフレームを投入していた各社も、RISCベースのプロセッサをベースとしたUNIXワークステーション/UNIXサーバを投入し始める。一番分かりやすいのはIBMであろう。IBMはメインフレーム向けをAS/400に切り替えつつ、このAS/400の製品ラインもRISCプロセッサ(RS64、のちにPOWER系列)に移行する。それと並行して同社はメインフレームであるIBM 3090にAIX(IBMのUNIX)を載せたり、RS/6000シリーズのUNIXワークステーションを投入したりするなど、UNIX時代への対応を進めるようになる。
この時代、PCはまだUNIXワークステーションには一歩及ばない程度であった。1992年を例にとれば、Sun MicrosystemsはTI製造のSuperSPARC I(33MHz)をSPARCstation 10に搭載して出荷し始めている。そのSPARCstation 10の性能は40 D(Dhrystone)MIPSほど。メモリは最大8スロットで512MBまで実装可能だった。対してIntelはIntel DX2(Intel 486DX2)/66MHzをリリースするが、性能は34 DMIPSほどで、最大搭載メモリ量も160MB(Intel 420ZX)に留まる。またマルチプロセッサ構成は未サポートで、UNIXワークステーション向けのRISCプロセッサの置き換えにはちょっと厳しいものがあった。
まだ1990年代は、PCとRISCプロセッサ&メインフレームの間に明確な差があったとしてよい時代だったと思う。
もちろんローエンド向けには、例えばNetWareのサーバを動かすといった用途にPCを使うことはごく一般的であったが、それ以上の用途に使うというケースは割とレアであった。もちろん前回も紹介したCompaqのSystemProのように、それ以上の性能を目指した製品も無くはないが、OSとかアプリケーションの対応の少なさなどもあって、主流からは遠いところにあった。
ところが1995年にIntelがPentium Proを投入してから、これが変わり始めた。命令セットはCISCのままで、内部処理はRISCにすることで互換性を維持しながら性能を引き上げるというアプローチは、x86プロセッサとRISC CPUの差を大幅に詰めることに貢献した。
AMDも、Pentium Proと同じアプローチのCPUを開発していたNexGenを買収、これをK6として市場投入して性能ギャップを縮めることに成功。ついで旧DECの設計チームによるK7の投入で、Intel製品とほぼ互角のところまで性能を改善する。これが大体2000年頃の話で、ここからIntelとAMDの猛烈な性能競争が巻き起こることになる。
実はこの時点で、Intelはまだx86でRISCプロセッサを置き換えられるとは考えていなかった。既に旧来のメインフレームはこの時点でIBMのSystem z(AS/400シリーズの進化したもの)と、あとはどうしても既存のメインフレームを捨てられない特定顧客向け程度になっており、代わりにRISCベースのUNIXサーバがほぼ市場を席捲していた。
と書いたら「System iとSystem zを一緒にするな」と突っ込みが入ったので補足。IBMはSystem/390の延長でSystem zというシステムを2000年に投入。最新のものはz16までバージョンが上がっている。一方でAS/400は2006年にSystem iに改称(その前にeServer iSeriesとかになった)が、2008年にIBM Power Systems(旧RS/6000の製品ライン)に統合されており、ハードウェア的にはPOWERベースに切り替わっている。つまりAS/400のラインアップは(筆者の観点では)もうメインフレームから外れてしまっており(OSはIBM iだからRISC UNIXサーバという分類でもないのだが)、メインフレームとして残されたのはSystem zの製品ラインのみである、という意味を込めたのだが言葉足らずで誤解を招いたことをお詫びしたい。
このマーケットに挑むべくHPと共同開発したのがItaniumシリーズだった訳だが、結果として自滅したという話は読者の中でもご存じの方は多いだろう。
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