Appleはいかにして「今日のAIやWeb」を予見したのか? “暗黒時代”とも呼ばれた1985~1996年の光と影:Apple 50年史(中編)(5/5 ページ)
1985年から1996年、スティーブ・ジョブズ氏が不在のAppleは混迷の時代を過ごしたが、この時期は現在のテクノロジーに通じる数多くの「未来の種」をまいた時代でもあった。本記事では、当時の野心的なプロジェクトの数々をひもとき、波乱に満ちた11年間の光と影に迫る。
ラインアップの細分化と「Mac互換機」路線、そして……
最後に、簡単にジョブズ氏が不在時代のAppleのMacについてまとめておこう。1986~1987年まで、最大の課題はカラー化だった。DTP市場で絶大な人気を誇っていたMacだけに、画面上で見た色と、印刷した時の色のずれを最小限に抑えるカラーマッチングが非常に重要だった。高度な色表現が可能だということで、初期の純正ディスプレイにはソニーのトリニトロンという技術を採用したディスプレイが選ばれた。
その後、1990年にかけては高性能モデルと携帯型モデルの開発が課題となった。1989年には重さ約7.3Kgの「Macintosh Portable」という持ち運ぶこともできるMacを、1990年には劇的に速い(が劇的に動作が不安定だった)「Macintosh IIfx」を発売。同じMacでもモデルによって異なるプロセッサを搭載したモデルを用意して性能を差別化するのは、このあたりから始まった。
その後、業界に衝撃を与えたのが1991年に登場した「PowerBook」というノート型シリーズだ。ソニーが製造した最軽量モデルの「PowerBook 100」でも2.3Kgほどの重さはあったが、それまでなかったキーボードの手前にポインティングデバイス(トラックボール)を配置するという、画期的な製品デザインで大きな注目を集め、その後、多くの会社にまねされることになった。
1991年に発表された「PowerBook」シリーズ(PowerBook 100/140/170)は、今では当たり前のキーボードの手前にカーソル操作デバイスを置くという配置を採用して世界を驚かせた。その後、ドックに合体させるとデスクトップ型に変身する「PowerBook Duo」など数々の名機が誕生した(写真:Danamania/Wikimedia)
当時、ノート型Macではマウスの代わりにトラックボールを内蔵してカーソル操作をするという発想は既にあったが、他社製品はこのトラックボールをキーボードの横や上部につけていた。これに対してPowerBookでは、キーボードの手前に広いパームレスト(手首を休めるスペース)を作り、その中央にトラックボールを配置したのだ(トラックボールがトラックパッドに変わったが、現在のMacBookもこの形を踏襲している)。
その後、AppleはMacをさらに細分化し、サーバモデル(Workgroup Server)、ハイエンドモデル(Quadra)、中堅モデル(Centris)、低価格エントリーモデル(LC)、低価格一体型モデル(Classic)といったバリエーションを用意した。
と、ここまでは従来のパソコン流通のチャネルで販売されるモデルだが、Macの売り上げを伸ばすには、Mac販売店に足を運ばない人の目にも触れることが重要だと、百貨店などの一般流通チャネルで販売するための「Performa」というシリーズを作り、こちらでも幅広いバリエーションを展開した(結局、日本ではそれまでのMacも、Performaも家電量販店で販売されていた)。
パソコンショップといった従来の販売チャネルだけでなく、百貨店などの異なるチャネルに消費者とMacの接点を作ろうと作られた「Performa」シリーズ。ニューヨークの公立図書館で発表会が行われた。安価な上に、最初からさまざまな実用ソフトが付属していてお得ということもあり人気が高かったが、種類が多過ぎて大量の在庫が残り、Appleの財政を逼迫(ひっぱく)した。写真はPerforma 5200シリーズだ
1992年頃から、Appleは「Quadra」という高性能モデルの発売も開始した(ある意味、今日のMac Proの源流と言える)。このQuadraは、AppleがIBMやモトローラと共に設計開発した独自プロセッサ「PowerPC」への橋渡しをすることになる。例えば写真の「Quadra 840AV」は、PowerPC搭載モデルの「Power Macintosh 8100AV」(ネームプレートの製品名以外、外観はほぼ同じ)に7万円ほどでアップグレードできた(写真:Silversword31/Wikimedia)
この時代、Appleはさまざまなメディアに、Mac OSのマーケットシェアが小さくて、MicrosoftのWindowsやMS-DOSに押されていると批判されていた。Macを作るのはApple1社だが、Windows機は世界中の何百という会社が作っており、ユーザーが自作したものまである。
物量が圧倒的に大きいのは、ある意味当たり前と言えば当たり前だが、マーケットが大きいという理由で、Macでデビューして一世を風靡(ふうび)したソフトの多くが徐々に使い勝手が向上してきたWindowsにも移植され始めており、Appleも焦りを感じていた。
そしてついに1994年、Mac OSの他社提供を開始し、Appleと契約を交わしたメーカーに限りMac互換機を作れるようにした。当初は優れた音響技術を持つパイオニアが音響機能に焦点を当てたMac互換機、Radiusが画像表示に注目したモデルなど、Appleだけでは出せない特色のある互換機だけを容認するつもりだったが、その後、次第にAppleと互換機メーカーとの間で性能競争、価格競争をせざるを得ない状況になり、Appleは次第に疲弊していった。
1994年~1997年、Appleは他社によるMac OS互換機作りを容認する。とはいえ、Windows機のようにどの会社も作っていいというわけではなく、Mac OSの体験を損なわないメーカーや、Appleが提供できない価値を付加してくれるメーカーを吟味してライセンスする形式だった。パイオニアは音響メーカーらしくスピーカーなどの音響仕様にこだわったMac互換機「MPC」シリーズ(Multimedia PC)を作って発表した
次世代OSとされていたCoplandの完成が延ばし延ばしになる中、ついにAppleはOS自社開発を諦めて、NeXTをジョブズ氏ごと買収することになる。
考えてみれば、この1990年代を通して、最も重要な技術はオブジェクト指向という技術だった。OpenDocやTaligent、幻に終わったKaleida Labsのマルチメディア技術も全てオブジェクト指向という技術を前提としていた。そしてこの時代、このオブジェクト指向技術の開発を最もうまく行っていたのがNeXTだった。
ジョブズ氏はAppleを辞めた直後、何をすべきかに悩みながら1970年のXeroxのPARC訪問で見たもう1つの技術であるオブジェクト指向こそが未来だと直感し、それをどこよりも丁寧かつ本質的にNeXTで形にしていた。
これが功を奏して、NeXTの技術は当時のApple経営陣に最も有望と認められ、ジョブズ氏復帰の話へとつながったのだ。
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