NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で話題 明智光秀が敗死しなければ「明智幕府」は誕生していたか?征夷大将軍になり損ねた男たち【後編】(1/2 ページ)

» 2020年01月19日 03時00分 公開
[二木謙一ITmedia]

 撮り直しで巷(ちまた)の話題となった大河ドラマ「麒麟がくる」(長谷川博己主演)は、1月19日から放送開始だ。主人公・明智光秀は、「裏切り」の三文字が付きまとい大方のイメージは悪い。だが、足利将軍の権威が失墜した戦国時代は文字通り「下剋上」の時代であり、天下人を目指す人物が登場してもおかしくはなかった。武家の最高位といえば「征夷大将軍」であるが、光秀も本能寺の変の後に、実は将軍宣下を受けていたとする説もある。

 これまで「花の乱」や「軍師 官兵衛」など14作品のNHK大河ドラマの時代考証を担当してきた著者による異色の人物日本史、近刊『征夷大将軍になり損ねた男たち――トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一編著、ウェッジ刊)では、光秀をはじめ、人望、血統、派閥、不運、病魔、讒言(ざんげん)などの理由で、将軍になり損なった47人の人物をクローズアップ。どの事例も歴史ファンに限らず、組織の中に生き、閉塞感漂う時代に好機を見いだしたいビジネスパーソンにも通じることばかりだ。

 3回目の連載では、大河ドラマの主人公である明智光秀を取り上げ、「三日天下」で終わっていなければ将軍に就いていた可能性を探る。

photo 大河ドラマの主人公、明智光秀は「三日天下」で終わっていなければ将軍に就いていたのか?(NHKのTwitterより)

有利な立ち位置の光秀に世間は靡かなかった

 明智光秀は天正10年6月2日に、主君織田信長を本能寺に暗殺したが、わずか11日後に秀吉軍と山崎で戦って敗死した。このことから、短期間しか政権の保持ができないことを明智にたとえ、俗に「三日天下」という言葉がある。

 光秀叛逆の動機や原因については、怨恨説、野望説、室町幕府再興説などのほか、さまざまな奇説・珍説などが横行しているが、いずれも決定的な確証はない。

 ただ室町幕府再興のためというのは、少々うがちすぎている。信長殺害後には、そうした正義を標榜したかもしれないが、光秀の過去の行動からすれば本心とは思い難い。立身出世を夢みて朝倉から義昭に鞍替えし、義昭の将来を見越せば素早く信長に走り、しかも隙あれば主君信長をも殺したような光秀の本音などは計り知れない。

 そこでここでは、もしも光秀が敗死をせずに、いわゆる「三日天下」で終わらなかったとしたら、明智将軍の出現があり得たかもしれないという推論を述べておきたい。

 信長暗殺という点からすれば、確かにこの時は絶好のチャンスであった。織田の重臣のうち秀吉は備中高松城攻めの真最中。また柴田勝家は越中の魚津にあり、滝川一益は上州の厩橋(前橋)に、丹羽長秀は信長の三男信孝とともに四国に渡海しようとしている。

 それに徳川家康は泉州堺の見物中、光秀をさえぎる軍勢は京都の周辺にはなかった。

 光秀が9日付で細川藤孝(幽斎)に送った自筆覚書の中でも、50日、100日のうちに近畿を平定するといっているように、光秀は織田の重臣たちが出払っている今、信長を殺せば周囲の諸勢力は光秀に靡き、畿内平定ができると考えていたらしい。ところが期待に反して人々は動かなかった。光秀は意外な反応に狼狽(ろうばい)し、焦燥にかられたことだろう。

 同じ9日、光秀は洛東吉田社の吉田兼見を訪ねて、朝廷に多額の金子を献じ五山をはじめ大徳寺・妙心寺などにも銀子を寄付し、洛中市民の税をも免じた。むろん歓心を集め、自己の立場を有利に導こうとしたのである。だがそれでも世間は動かなかった。

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