東京下町の町工場が15年で取引先を120倍にできた理由(1/2 ページ)
減少し続けている東京下町の町工場。そうした苦しい時代の中でも取引先を15年で120倍に、売上を20倍に増やし、成長し続けている町工場ある。
東京下町にある町工場が減り続けている――。かつて大田区や墨田区などの下町は、工場の集積地として栄えていたが、景気の悪化や、大手メーカーの生産拠点が海外へ移ったこともあり、年々縮小の一途をたどっている。墨田区では45年前に1万社ほどあった町工場が現在、約3000社にまで減少した。今もなお、減少が続いている。
しかし、そうした苦しい時代の中でも取引先を15年で120倍に、売り上げを20倍に増やし、成長し続けている町工場が墨田区にある。「精密板金加工」などを手掛ける浜野製作所だ。多くの町工場が姿を消していく中、一体なぜ同社は成長することができたのか。社長の浜野慶一氏に話を聞いた。
量産型から一品物・試作品の仕事へ
新しいことにチャレンジしなければ生き残ることはできなかった――。浜野氏はそう語り、当時を振り返る。
浜野製作所は1968年に浜野氏の父親、浜野嘉彦氏が創業。最初は部品を量産するために使われる「金型」作りがメインだった。当時は景気も良く、その金型を使った部品の量産も請け負っていたという。
しかし、バブル経済が崩壊した後は、大手メーカーが生産拠点を人件費や土地の価格が安い海外に移すようになり、量産の仕事は海外の工場へ流れていった。量産の仕事を請け負っていた多くの町工場が苦境に立たされた。
そうした状況で生き残るためには、環境の変化に合わせて戦い方を変えていく必要がある。そこで1993年から工場を継いでいた浜野氏は2000年ごろ、量産型の仕事ではなく、精密板金加工と呼ばれる手法で、少量多品種の部品を生産することにシフトチェンジしたのだ。
「土地や人件費が高い東京は、日本全国の中で一番モノ作りに適していない場所だと思う。大資本を持つ企業とは違う、下町の町工場としての戦い方が求められていた」(浜野氏)
大企業の工場は、効率的に利益を上げられる量産型の仕事を得意とするが、逆に試作品などの「一品物」や「少量多品種の部品」の生産に対し、柔軟に対応することには向いていない。浜野製作所では「こんな形の部品、製品は作れないだろうか」といった顧客からの相談に対して、一つ一つ柔軟に対応していくことに特化することで取引先を伸ばしていった。
足の不自由な患者がつかまり立ちで、歩行できるようにするための「リハビリ用器具」や、食品メーカーからの特注による「パン焼き器」など、取り扱う少量多品種の製品は多岐にわたる。
量産の仕事に比べれば利益率は低いが、この少量多品種の製品や試作品、一品物の製造をメインにしたことで、結果的に量産型の仕事の受注にもつながっているという。
「量産の仕事の場合は高額な案件になるため、簡単に注文をとってくることができない。しかし、試作品などの一品物であれば受注のハードルは下がる。まず、試作品の仕事で当社の存在、技術力を知ってもらうことで顧客との信頼関係をつくり、そこから量産型の仕事ももらうという流れを確立することができた」
顧客との接点、信頼関係を作ることで、小さな仕事から大きな仕事へつなげる。これも取引先、売り上げを伸ばした一つの要因だが、成長の背景は、町工場の常識を変える数々の新しい取り組みにある。
関連記事
- ウェアラブル端末が「街角」より「工場」で普及する理由
今後の市場拡大が期待されるウェアラブル端末。いま、その市場は一般ユーザー向けよりも、製造や建設現場といったB2Bの分野で盛り上がりを見せているという……。一体なぜか。 - 行ってよかった! 工場見学ランキング
旅行口コミサイトを運営するトリップアドバイザーは、サイト上に投稿された口コミ評価をもとに、「行ってよかった! 工場見学&社会科見学ランキング2015」を発表した。 - 1日200人が見学、日本食研製造の“宮殿”工場に行ってきた
工場といえば、殺風景な建物が定番。しかし、1日200人もの見学者が訪れるという日本食研製造の工場は、“宮殿”とモデルとした驚くべき建物。その全容をリポートする。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.