“辺境の密造酒”スコッチ・ウイスキーが世界を制した訳――「資本主義の酒」の歴史的マーケティング:「伝統とこだわり」をどう確立したのか(7/7 ページ)
実は「辺境の密造酒」から始まったスコッチ・ウイスキー。「伝統とこだわり」のブランドを維持しつつどう世界に羽ばたいたか。人気ラノベ作家が歴史から迫る。
生活水準向上で酒の好み変容
より決定的なのは、経済史家ロバート・C・アレンが考案した「ゆとり比率」でしょう。
これは「どれだけゆとりのある生活を送っているか」を示した指標で、1よりも大きくなるほど「豊かな生活」をしていると言えます[35]。ゆとりバスケットとは、そこそこのゆとりのある生活を営むのに必要な消費財(※食糧やろうそくなどの消耗品)の年間費用を、当時の物価で合計した数値です。当時の所得水準をゆとりバスケットで割ると、ゆとり比率になります。
上記のグラフを見ると、ロンドンの労働者の生活水準は1825年から1875年の半世紀で急激に向上したことがうかがえます。ロンドンほどではないにせよ、イギリスの他の地域でも似たような傾向があったと考えていいでしょう。
生活が豊かになったからこそ、人々の嗜好も変化したのではないでしょうか。「安くて強い酒で酔えればいい」という人々が、より味のいいお酒を求めるようになったのではないでしょうか。美味しく調整されたブレンデッド・ウイスキーが普及したことは、人々の生活水準が向上した証拠なのかもしれません。
そしてブレンデッド・ウイスキーの普及は、各蒸留所が個性を守ることができたことにも関係しています。というのも、ブレンデッド・ウイスキーの味を調整するには、バリエーション豊かな樽原酒が必要だからです。1本のブレンデッド・ウイスキーには通常、30〜40種類のモルトウイスキーと、3〜4種類のグレーンウイスキーが使われています[36]。
さらに、原酒の個性が強いほど、格安のグレーンウイスキーの配合比率を増やせる――コストダウンにつながるという事情もありました。1880年代にはグレーンウイスキーが95%という高比率で使われている製品もあったようです[37]。わずか5%のモルトウイスキーで味を調整していたことになります。そんなブレンドが可能なほど味が濃く、クセの強いモルトが必要とされていたのです。(※なお、現在ではここまで極端な製品は珍しく、通常はモルトウイスキーが2〜4割の比率で使用されています[38])
私たちは資本主義という言葉を、大量生産・大量消費、そして画一的で無個性な製品……といったイメージと結び付けがちです。しかし実際には、生活水準が向上するほど人々の嗜好は多様化し、個性豊かな製品が求められるようになります。産業革命と資本主義の発展に歩みを重ねてきたスコッチ・ウイスキーはその証左でしょう。
スコットランドでは、現在でも新しい蒸留所が次々に建設されています。個性的な製品を作り出し、多様化した需要に応えようとしているのです。
「伝統とは火を守ることであり、灰を崇めることではない」――グスタフ・マーラー
グラス1杯のスコッチを飲むたびに、私はこの名言を思い浮かべてしまいます。
※参考資料
[1] 契約書に押印するロボット。デンソーと日立
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1912/13/news143.html
[2]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス『スコッチウイスキーの歴史』国書刊行会(2004年)p115-116
[3]ウィリアム・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生』日経ビジネス人文庫(2015年)上p306-307
[4]ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』NTT出版(2012年)p159
[5]土屋守『ウイスキー検定公式テキスト』小学館(2019年/第2刷)p8-9
[6]土屋守(2019年)p132
[7]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p45
[8]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p47
[9]土屋守(2019年)p132
[10]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p47
[11]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p47-48
[12]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p95-97
[13]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p64
[14]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p82
[15]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p113-116
[16]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p129
[17]板谷敏彦『金融の世界史』新潮選書(2013年)p143
[18]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p51
[19]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p39
[20]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p122
[21]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p153
[22]土屋守(2019年)p234
[23]土屋守(2019年)p20
[24]土屋守(2019年)p21
[25]土屋守(2019年)p25
[26]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p179
[27]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p192
[28]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p218
[29]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p246
[30]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p249-250
[31]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p264
[32]土屋守(2019年)p190
※輸入品はもちろん、国産のウイスキーもよく飲まれた。
[33]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)付録p73統計表3より
[34]グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』日経BP社(2009年)上巻p291
[35]ロバート・C・アレン『世界史のなかの産業革命』名古屋大学出版会(2017年)p43
[36]『世界の名酒事典2008-09年版』講談社(2008年)p37、土屋守氏による記事
[37]ジョン・R・ヒューム&マイケル・S・モス(2004年)p167
[38]土屋守(2019年)p103
著者プロフィール
Rootport(るーとぽーと)
1985年生まれ。作家。ライトノベルの作者として活躍、『女騎士、経理になる。』(幻冬舎コミックス)シリーズは漫画化も果たした。はてなブロガーとして活動し、ブログ「デマこい!」を運営。
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