三軒茶屋が「住みたい街」であり続ける理由 再開発が街の魅力を“奪わなかった”ワケ:Merkmal(2/3 ページ)
東京都世田谷区・三軒茶屋は、急増した人口と再開発の波の中で、住民反発を経て独自の共存モデルを築いた。27階建てのキャロットタワーと昭和の商店街が調和し、SUUMO住みたい街ランキングで常に上位50位以内を維持。住民主導の対話を重視したまちづくりが、画一化に抗う都市再開発の新たな指標となっている。
住民が主役に変わる瞬間――行政との対話から始まった
この付帯意見後も、協働が順調に進んだわけではない。1989(平成元)年に入っても、ビルの高さを巡り区や準備組合と住民の対立は続いた。
大きな変化が訪れたのは、審議会で指摘された「きめ細かな会合」の対応だ。準備組合は体育館で数百人規模の説明会では議論がまとまらないと判断し、1989年以降は少人数による定例的な説明と協議を開始。問題解決への姿勢を示した。
この話し合いを経て、都市計画は住民の意見を反映して変化した。例えば、キャロットタワーの27階建て決定もその一例である。
同時期、世田谷区は区全体で「住民主導型まちづくり」を政策として推進していた。同年には「まちづくりリレーイベント」を開催し、区内各所で12の住民参加型事業を展開。清掃工場煙突のデザインコンペや太子堂地区の住宅設計セミナー、公共トイレのアイデア募集など、住民が都市課題を考え提案する場が次々に設けられた。
三軒茶屋でも、再開発ビル内に予定された文化施設の利用を巡り、住民による演劇ワークショップを実施。住民自身が施設の活用法を考える実験が行われた。
つまり、三軒茶屋の住民参加は、激しい対立の末に区の政策と住民の切実な要求が合致した結果である。対立から始まった関係は、粘り強い対話を通じて協働に転じ、三軒茶屋の再開発は新たなまちづくり手法を生み出すに至った。
住民と行政が築いた、“再開発の成功モデル”
この経緯を論じた金澤良太「市街地再開発事業における周辺住民への対応――太子堂・三軒茶屋 4 丁目地区第一種市街地再開発事業を事例に――」(『せたがや自治政策』Vol.11)には、次のように記されている。
世田谷に蓄積されたまちづくりの伝統があったことによるだろう。再開発ビルの設計に関して様々な交渉・調整をおこなった周辺住民との会合は、ごく少人数で開催されたものであり、そこに参加する住民は専門的な領域に根気強く取り組むことのできるだけの力量をもっていたからこそ、具体的に施設計画について意見のすりあわせをすることができたのだろう。区画街路を考える会も同様である。また、区画街路を考える会では話し合いの手法としてワークショップの手法が活用されており、話し合いの運営においても世田谷で蓄積されたまちづくりの経験が生かされたのである。
つまり、三軒茶屋の成功は偶然ではない。
世田谷区が推進してきた「住民主導型まちづくり」の理念と住民参加の手法が蓄積されていたからこそ、激しい対立を乗り越えて協働に転じることができたのだ。区が大規模地権者として参画した特殊事情に加え、ソフトなまちづくりの基盤があったため、住民の声を設計に反映させることが可能となった。三軒茶屋は行政理念と住民の切実な要求が対話を通じて融合した貴重な成功例である。
こうした住民参加のプロセスを経て、1992(平成4)年に工事が開始され、1996年11月に地上27階建ての「キャロットタワー」が完成した。キャロットタワーは単なるオフィスビルではなく、
- 区の出張所
- 文化施設(シアタートラム)
- 商業フロア
――が一体化した複合施設として設計された。住民参加の議論を反映し、文化・行政・商業が融合した「地域の拠点」を目指したのである。
住民との対話から生まれた工夫は建物設計にも表れている。地下鉄から世田谷線への乗り換えは半地下の連絡通路を通るため、「首都高が一度も視界を横切らない」動線が実現された。『朝日新聞』1998年4月19日付朝刊「再開発で首都高隠した「三茶」(すとりーとスケッチ)」では、この設計を「醜い物が見えないよう、人を地下にもぐらせるとは。姑息だけど一つの解決策ではある」とユーモアを交えて絶賛している。
一方、タワーの足元には戦後の闇市から続く昭和レトロな商店街が保全された。最新の高層ビルと昭和の商店街、そして首都高という景観を損ねるインフラを巧みに隠す設計が組み合わさり、独特の街並みを形成した。この新旧の共存と住民目線の工夫こそが、三軒茶屋を「どこにでもある再開発地区」とは異なる個性的な街に変えたのは間違いない。
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