深海に潜る――幻冬舎が最新電子書籍アプリに込めた思い

幻冬舎からリリースされたiPad向け電子書籍アプリ「深海のとっても変わった生きもの」は、電子書籍市場に対する出版社の取り組みがすでに第2フェーズに入っていることを感じさせる。

» 2010年12月23日 10時00分 公開
[西尾泰三,ITmedia]

 幻冬舎は12月22日、iPad専用の電子書籍アプリ「深海のとっても変わった生きもの」の配信をApp Storeで開始した。価格は1200円。11月にはiPhone/iPad向け電子書籍アプリ「パレード」を配信開始している幻冬舎だが、付加価値を付けた電子書籍アプリとしては、今回の「深海のとっても変わった生きもの」が初となる。

左から、幻冬舎編集出版本部デジタルコンテンツ室の小野聡子さん、同室長の設楽悠介氏、ノングリッドの上林新氏、勝目祐一郎氏(祐は旧字体)

紙の書籍では表現できない付加機能を考えていきたい

 「深海のとっても変わった生きもの」は、幻冬舎が2010年6月に刊行したもので、海洋研究開発機構の研究者が撮影した深海生物85点が厳選掲載された深海ファン必携のフォトブック。インターネット上で写真を見つけることも困難な生き物など、広大な深海環境に息づく生物の神秘を垣間見ることができる作品だ。

 電子書籍化に当たっては、もともと本書が写真集に近いものであるということもあり、全文検索機能なども用意されていないシンプルなビューアで構成されているが、汎用的なものになりがちなリスト表示などのデザインセンスが光っている。

深海のとっても変わった生きもの。紙版を電子化するだけでなく、デザインを工夫したリスト表示などが目を引く

 このアプリでは、紙版の内容が電子書籍化されているだけでなく、iPadの特性を生かして深海への潜水を疑似体験できる「SHINKAI EXPLORER」機能が搭載されており、起動時にビューアかSHINKAI EXPLORERを選択する。

 SHINKAI EXPLORERは、マルチタッチの特性を生かし、ピンチアウト(タッチパネル上に親指と人差し指を乗せ、二本の指で押し広げるような動作をすること)操作で潜水を疑似体験できるというもの。深海へと潜っていくにつれ、本文で紹介されている深海生物が暗闇の中からその姿を現す。海面から5メートルくらいでその姿を現すものもいれば、2400メートルを超える深海の世界に生きる生物も存在し、深海の不思議を疑似体験できる。

ビューアは縦表示にも対応しているが、SHINKAI EXPLORERは横表示のみ。SHINKAI EXPLORER起動時は操作方法がレクチャーされる(写真=左)/ピンチアウト・ピンチイン操作で深海を旅していると、不意に深海生物が登場する。ちなみに、画面左には水深メーターが用意されており、ピンチアウトせずにピンポイントの深度に潜ることもできる(写真=右)
深海生物をタップすると詳細情報を表示できる(写真=左)/さらに詳しい情報を知りたいときは書籍の該当ページにジャンプすることも可能だ(写真=右)

 このアプリのデザイン・開発を手掛けたのは、Web制作会社の草分け的存在として、数々の名作サイトを世に送り出してきたノングリッド。最近ではアプリの開発にも乗り出している。

 「弊社のホームページを製作いただいたりした縁などもあり、日ごろから情報交換させていただいていたのですが、電子書籍市場がにわかに盛り上がりの兆しを見せ始めた4月ごろから、電子書籍で何かワクワクすることができないかとディスカッションを進めていました」と幻冬舎の編集・出版本部デジタルコンテンツ室で室長として同社の電子書籍戦略を推進する設楽悠介氏は振り返る。

 「前提として、積み重なった書籍製作のノウハウを生かした電子書籍の製作が功を奏すものもあれば、まったく異なる観点から電子書籍を製作した方がよい場合もあるのではないかという考えがありました」と設楽氏。今回の取り組みは明らかに後者のアプローチだ。

 一方、ノングリッドのディレクターで、今回のアプリ開発を指揮した上林新氏は、「デザイン制作会社としての誇りもあり、特にユーザーインタフェースの部分をいかに工夫するか、ほかではみられないUIにしたかった」とアプリ開発のポイントを振り返る。

 「電子書籍を読ませるだけでしたら、インタラクティブ性は出しにくいでしょうし、目新しさももうないでしょう。ユーザーに対してさらに深くコンテンツにはまってもらうための施策がないかと考えていました」(上林氏)

 上林氏が着目したのは、巻末にあった写真の詳細なデータだった。そこには、それぞれの深海生物がどの海のどの深さで撮影されたものかを示すデータが記されているが、これが生かせないかと考えたのだ。その結果、今回のアプリに付けられた“おまけ”が「SHINKAI EXPLORER」となった。当初はおまけとして考えられていたものが、その価値を認められ、リリースされたアプリでは起動直後にビューアとSHINKAI EXPLORERを選択する仕様となった。

 「ユーザーがあまり目にしない情報から付加価値につながるようなアイデアを引っ張り出してくることを考える必要があるのかなと思いますね」と上林氏。設楽氏も、「巻末のメタデータを生かしていただいたなという印象です。本を作るときにはそんな風に使われるだなんて想定していなかったものが、付加価値として活用できるということに気付かされました」と話す。

 「写真のきれいさをどうiPad上で表現するか。単にサイズを大きくすればよいというものではなく、限られたiPadのリソースの中で最適な圧縮率や解像度を時間を掛けて検証していった」と話すのは、ノングリッドのデザインエンジニアである勝目祐一郎氏(祐は旧字体)。勝目氏は、「紙の解像度を想定してIndesignなどに埋め込まれている画像をそのままアプリで使うというのはよくない。解像度で言えば紙が300〜350dpiのところを225dpiで書き出している」など、電子書籍アプリ開発時におけるノウハウが蓄積されつつあるという。

 上林氏によると、「ビューアとしての汎用性を持たせつつ、本ごとにふさわしいUIというものがあるはず。UI部分はコンポーネント化することで、本に合ったUIを提供していけるでしょう」と話す。

紙の本で装丁を考えるのと同じように付加価値を

ノングリッドの上林氏、勝目氏

 盛り上がる電子書籍市場だが、上林氏は作り手からすると、まだ手探りな感が強いと話す。

 「個人的に思うのは、現在提供されている電子書籍アプリの大半が、ページめくりなどのギミックにとらわれてしまっている。それは本当の意味での電子書籍なのでしょうか。私は、デバイスの特性を生かして製作するのが本当の電子書籍なのだと思います。そのスタディとして、今回のアプリ開発から得るものは多かったですね」(上林氏)

 また、設楽氏は、幻冬舎が電子書籍市場をどのように見ているかを次のように説明する。

 「どの端末でも読めるように汎用的なファイルフォーマットで電子書籍を出していく必要性がある一方、付加価値を持つアプリ型の電子書籍を提供し、深く楽しんでいただけるような取り組みが必要だと思います。出版社はこの両輪で考えないとならないと思いますね。

 読者にコンテンツを届けるのが出版社の役割です。それは紙でもアプリでも変わりません。無意味に音楽を付けたり、動画を埋め込んだりというのは見ていて面白いものですが、紙の本で装丁を考えるのと同じように、ユーザーに対するしっかりとした付加価値を示していく必要があるでしょう。今回のアプリは1つの表現方法で、これからもさまざまなことを試していきたいと思います」(設楽氏)


 今回幻冬舎からリリースされた「深海のとっても変わった生きもの」、あるいはエコノミストの吉本佳生氏が講談社からリリースしたiPhone/iPad向け電子書籍アプリ「マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】」のように、電子書籍の製作と価格戦略は少しずつ洗練されてきており、紙版を単に電子化したものは第一世代の電子書籍とでも呼ぶべき状況になってきている。2011年はこうした「アドバンスド電子書籍」とでも呼ぶべきものが新たな潮流を生むのかもしれない。

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