「初期の買い手に報いる電子書籍を」――吉本佳生氏が考える「本のミライ」エコノミストが読み解く電子書籍市場

エコノミストとして知られる吉本佳生氏が、講談社から一風変わった電子書籍アプリをリリースした。これまでの常識を覆すような取り組みは、経済学を応用し、さらに本の未来にも大きな影響を与えるかもしれない。同氏に話を聞いた。

» 2010年12月22日 11時15分 公開
[西尾泰三,ITmedia]

エコノミスト吉本佳生氏の電子書籍に注目

マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】 吉本氏の著書「マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?」が電子書籍に

 2009年から2010年にかけてNHKで放送された経済学教育番組「出社が楽しい経済学」の監修・出演者であった吉本佳生氏。「スタバではグランデを買え! ―価格と生活の経済学」(ダイヤモンド社)などの著作でも知られる同氏が、講談社からiPhone/iPad向け電子書籍アプリ「マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】」をリリースした。

 同書は、経済活動の中でも「消費」に焦点を当て、牛丼チェーン店の価格戦争、ファストフード店の販売戦略、人気ゲーム機の価格暴落に隠された経済の疑問を解き明かした一冊。先月末、紙の書籍が一足先に販売されている。

 しかし、同アプリは単に紙書籍を電子化したものではない。「(自著の中では)情報戦略がうまくできている企業を取り上げていますが、電子書籍アプリでも不完全ながらそれを取り入れてやってみたかった」と吉本氏。同氏に詳しい話を聞いた。


吉本佳生氏 吉本佳生氏。手にはiPhone/iPadのユニバーサルアプリ「マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】」が

電子版ありきで製作すると、いろいろ見えてきた

 「電子書籍においてはみんなやるべきだ、と提案する意味でもわれわれが最初にやりたかった」と吉本氏。そこには、これまでの常識を覆すような取り組みが幾つか見られる。

 まず、目に付くのはその価格。同アプリは1700円と、紙版の1680円と比べて高く設定されている。電子書籍を購入した経験がある方なら、紙版より高く設定されていることに少々驚くかもしれない。しかし、両者は実際には大きく異なる。

 書籍の内容だけを比較しても、8章までしかない紙版に比べ、電子版は2章多い10章が用意されている。章の構成を変えたのではなく、原稿段階では10章までありながら、紙版ではページ数の関係で削ったものだ。また、電子版では多くの章でコラムが挿入され、本章の内容が補記されている。

「マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】」のスクリーンショット。本文部分はすべてKeynoteで製作されており、iPhoneで読むことを前提にフォントのサイズなどにも試行錯誤をくり返したのだという

 今回の取り組みでは、電子版がありきで考えていたと吉本氏。同氏は、自身の執筆スタイルがまず作図してそれに文を足していくものであることを明かし、今回のアプリのコンテンツ部分はすべてKeynoteで作ったのだという。Keynote上ではムービーなども多用し、紙版ではそれをそぎ落としているようなものだ。

 「“自然な”電子書籍は文字中心でなくてもよいのではないかと思います。オーディオブックでの提供、あるいは図版を動画にしたりするといったように、コンテンツの扱いについて読み手に選択肢を与えることは、ユーザーニーズを満たす意味でも、出版社の価格戦略を考える上でも有効だと思います。そして、文字中心のものは紙ですみ分けるのが一つの手ではないかと思うのです」(吉本氏)

マクドナルドはなぜケータイで安売りを始めたのか?【リッチ版】 アプリ内課金の仕組みを利用したストア型アプリを採用。必要な章を無料でダウンロードする

 特徴的なのは、基本的には一作品の電子書籍アプリでありながら、構造としてはストア型のアプリになっていることだ。アプリ内では、章ごとに無料でダウンロードできるようになっているが、これには幾つかの利点がある。1つは、一度にダウンロードするサイズが少なくて済むというもので、かつアプリ内課金の仕組みを利用しているため、サイズが20Mバイトを越えていても3G回線でダウンロードできるというメリットがある。

 より重要なのは、書籍の内容を補記する新章、あるいはその著者の新作といったコンテンツ、さらには同氏が推薦するコンテンツも並び得るということだ。実際、同アプリからはジャーナリストの西田宗千佳氏の著書である「美学vs.実利 『チーム久夛良木』対任天堂の総力戦15年史」の第3章が読めるようになっている。いわば、サブスクリプションを単体のアプリで実現してみた例といえるかもしれない。

 これは、著者が発信するコンテンツに意義を感じるユーザーにとって、興味深いレコメンドとなるだろう。著作の内容に関連した書籍を無料で一部渡すことで、その書籍の売り上げにもつなげることができる。ソニーやシャープが展開している電子書籍ストアでもこうした提案型の構造を取り入れているが、それを著者が直接行うことで、読み手との結び付けを強化している。

 「玉石混交の作品がそれこそ山のようにあって、買い手はもうすでに探せていないのですから、誰かがキュレートする必要があります。例えばわたしでしたら、『経済小説の良書10選』といったような紹介の仕方もあり得るわけです」(吉本氏)

吉本氏がYoutubeで公開している企画意図

初期の買い手に報いる価格戦略を試行

 もう1つ見逃せないのは、吉本氏がこの電子書籍アプリで、従来あまり見られなかった価格戦略を試行しようとしている点だ。

 「わたしがアイデアとしてお話ししているのは、紙版と比べて“おまけ”が多いのなら、それは必ずしも紙書籍より値段が下でなくともよいのではないかということです。例えば、紙版に500円分くらいのおまけをつけた電子書籍を(紙版と比べ)200円値上げして販売するとします。買い手からすると、実質300円得をしているわけです」と吉本氏は話す。

 また、コアなファンに報いる構造作りにも取り組んでいる。ハードウェアでも、一般的には最初に登場したものが最も高くて最も性能が悪い。少し待てば安価に性能がよいものが市場に登場するかもしれないという気持ちから、初期型を避ける傾向が生じやすいのはよく知られたところだ。しかし、最初に購入してくれるコアなファンが高くて不完全なものを買い、後からやってきたファンが安くてよいものを買う、という構造を何とか回避できないかと吉本氏は考えた。

 そこで吉本氏は、初期の買い手が最も得をする価格戦略を試行しようとしている。

 「例えば、1カ月後には新しいコンテンツを追加して、100円値上げして販売しますとアナウンスするとしよう。しかし、新たに追加されるコンテンツは既存のユーザーには無料で提供されます。これは、時限的に切り上がっていく期間限定価格とでもいうものになり、初期の買い手に報いる価格戦略なのです」(吉本氏)

 この価格戦略が有効に機能するには、幾つかの条件が必要である。まず、ある程度の期間、継続的に新たなコンテンツが追加されることを提供側がコミットすること、そして、そうしたコンテンツが読者にとって有用であること、そして、この仕組みに参加する著者が増え、ネットワークが形成されることである。

 「関連書籍やおすすめとして何でも紹介してしまう方がいいのではないかと思われるでしょうが、それは結果として読者に支持されないものを提供してしまうことになりかねません。仕組みとしては電子書籍アプリの売り上げから紹介しているほかの電子書籍アプリの著者に相互に売り上げを渡すような形になるので、変なものを紹介するメリットがない。そのため、純粋に新しく加える価値のあるものだけを付け加えていきたいと考えています。今回のアプリでいえば、ほかの著者のものについては今後数名の方の作品を、自分の著作は基本的にここに足していくことになるでしょう」(吉本氏)

 西田氏の「美学vs.実利 『チーム久夛良木』対任天堂の総力戦15年史」も、このストア型の電子書籍アプリとしてリリースされる予定で、まずはスモールスタートといったところだが、それでも紙書籍以上に埋もれやすい現在の電子書籍市場にあっては有効だ。この取り組みに賛同する著者が増え、全体としてこの仕組みを利用したアプリが増えるにつれ、著者からの情報発信をダイレクトに受けるようなモデルが生まれるのかもしれない。

 続けて同氏は、出版社が積極的に電子書籍を展開すべき理由についてこのように語る。

 「わたしが出版者の方にお話ししているのは、出版社が本を売るために今考えるべきは、携帯電話に奪われてしまっている時間をいかに取り戻すか。その入口として電子書籍は使えると思います。そのため、そうした携帯端末で読めることを優先し、そこから紙につなげるような共存の仕方を模索してもよいのではないかと思いますね」(吉本氏)

 吉本氏の試みは実験的なものだが、出版社が特定の著者に対してはこうした取り組みを進めているのは興味深い。つまり、出版社を軸とするのではなく、著者を軸としたコンテンツの展開に出版社が乗り出すかもしれないということだ。そこでは、編集者の役割も従来とは少し異なるものとなるだろう。今回の取り組みでも、吉本氏と西田氏を結びつけたきっかけとなったのは、両者の著作を担当した1人の編集者の存在が大きい。実験的に開始された今回の取り組みだが、いずれは異なる出版社のコンテンツもこうした枠組みの中で取り扱われるのかもしれない。

 吉本氏も、これが購買情報などと結びつけてリコメンドできるようになれば、新たなプロモーション手法が確立できるのではないかと出版社に向けて提言している。

 2011年には、こうした著者同士のネットワークを核にした、コンテンツの販売モデルが一般化してくるのだろうか。

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