会社で働く人間にとって、“責任感”とは何だろうか吉田典史の時事日想(2/3 ページ)

» 2010年07月23日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

「組織的な隠ぺい工作」のベースにあるもの

 私は、3年ほど前の取材を思い起こした。某金融機関で30代の社員が自殺し、その背景を調べようとした。噂によると、イジメがあったという。そのとき、弁護士を通して遺族を紹介された。その遺族は、「息子が職場で上司からイジメを受けていた。それを苦に死んだ」と打ち明けてくれた。そして私は、金融機関の社員2人と接触を図った。

 だが、彼らはイジメがあったかどうかについては答えない。同じ部署にいたのだから知らないわけはないはずだ。いまにして思うと、彼らが何も言わなかったのは会社員としての責任感と言えなくもないと感じる。

 しばらくすると、2人の上司からある場所に呼び出しを受けた。彼は、そこで「広報部員とともに取材を受ける」と言う。私はその言葉を信じ、出向いた。ところが、上司の横には、驚くことに某企業の役員がいた。その役員と私とは、十数年の付き合いがある。そして2人は「取材はこれで終わりにしてほしい」と言ってきた。

 私の想像だが、その金融機関は私と親しい人を調べ上げたのだろう。すると某企業の役員が浮かび上がった。金融機関はその企業と、以前から取引があった。そこで「渡りに船」と思い、役員を通して取材を止めさせようとしたのではないか。真相はいまも分からないが、私からすると理解に苦しむ行為だ。だが、考え方によっては上司の責任感の表れと言えるかもしれない。

 これらは、「組織的な隠ぺい工作」と言える。多くのメディアもこの言葉を使うが、このベースにある責任感にこそ目を向けるべきだと思う。ここが、諸悪の根源であるからだ。

日本人の責任意識の特徴

 私は22年前の大学生のころ、何度も読んだ本がある。それは以前、この連載でも紹介したが、当時、武蔵大学の教授であった岩田龍子氏が書いた著書『日本的経営の編成原理』(文眞堂)だ。この中に「日本人の責任意識」について述べた部分がある。

 「社会に対する責任よりも、自己の所属する集団に対する責任が強く意識されるという事実、また、より大きな上位集団に対してよりも、身辺の下位集団に対して責任が意識されるという事実がある」(99ページ)

 私の解釈だが、日本人は市民社会の価値、例えば、法律や社会常識を守るといったことよりも、組織の言わばおきてのようなものを優先させる傾向があるということだろう。

 この本が書かれたのは、1970年代の後半。それより10年ほど前(1960年代)は、企業のもたらす公害が社会問題となっていた。岩田氏はそれを踏まえ、「自社の公害責任に対して企業別労働組合の多くが示した反応は、そのひとつの典型的な行為といわなければいけない」(100ページ)と述べている。

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