会社員は何をもって「優秀」と言うのか吉田典史の時事日想(2/3 ページ)

» 2011年12月16日 12時29分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

「全人格的な評価」の怖さ

 私は「全人格的な評価」を否定的にとらえる人の思いも分かる気がする。その理由の1つとして「全人格的な評価」で高い評価を受けると、「性格や勤務態度が優れている」と見なされ、さらには「人格ができている」とまで評されることがあるからだ。

 事実、私が取材先や取引先に行き、そこの社長や役員らのことを聞くと、その半数以上が「人間として立派」とか「人間的にできた人」と口にする。私は会社員の頃を思い起こし、釈然としない気分になる。しかし、私の観察では特に社員数1000人以上の大企業では多くの社員から社長や役員らがそのようなに見られていることは間違いがない。

 逆に言えば、「全人格的な評価」を行う職場で、同世代の社員よりも低い評価をつけられ、それが数年間に及ぶと、その社員が「人格者」とは言われない傾向がある。むしろ、仕事以外のところで、例えば「だらしない」などとバカにされることすらある。

 ここに、「全人格的な評価」の怖さがある。しかも、この「全人格的な評価」は突き詰めていくと、その基準があいまいである。上司が何を持って、自分の優劣を決めるのかが見えてこない。これでは上司が誤りをしていても、なかなか意見も言えないという構造を作ってしまいかねない。

 もう1つの理由として「全人格的な評価」を行う職場で働くと、無駄な精神的なエネルギーを使う可能性があることだ。仕事をして実績で示すだけでなく、チームの一員として適切な行動を取ったり、上司を中心とした和を作るように意識せざるを得なかったりする。

 これらは状況いかんで、会社や部署の目標とはまったく違う次元で、部下である社員たちがエネルギーを注ぎ込むことにもなりうる。ましてや、建前と本音の論理が浸透している日本企業では、表向きは皆が上司の顔色を盛んに気にして、和を重んじる。

 ところが、本音の部分では熾烈なライバル心を同世代の社員たちは互いに持つ。そこにも、一段と精神的に疲れるものがある。私の周囲にいる個人事業主やフリーターは、きっとこんな部分にうんざりした経験があり、「全人格的な評価」を否定的にとらえるのだろう。

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