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» 2011年12月31日 08時00分 公開

東日本大震災ルポ・被災地を歩く:年越しを迎える被災地、改めて防災教育を振り返る (2/5)

[渋井哲也,Business Media 誠]

被害が大きかった釜石市鵜住居は

 一方で、「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石東中のあった鵜住居地域は釜石市内で最も被害が大きかった。

 釜石市では津波による被災住宅は3692件(全壊2952件、地震856件)。地域別で見ると、鵜住居が断然多く1690件(全壊1515件、地震61件)と、被災住宅の45.7%を占める。死者は市全体では755人で、行方不明者176人を合わせると931人。鵜住居では445人が亡くなり、行方不明者138人を合わせると583人で、市全体の62.6%を占めている。

検証委員会の第1回会合

 犠牲者が多く出たことの象徴は、鵜住居地区防災センターでの悲劇だ。市側の資料によると、当時、同センターに避難したのは100人前後。防災センター内での発見遺体は63人。そのほか、隣接する鵜住居幼稚園付近では5人が発見されている。生存者は26人。

 同センターは「津波避難」をするための避難場所ではなかったが、避難誘導を行っていた。「消防関係者だけは屋上に上がっていた」との証言もある。また、津波が来るとなった時、同センターの避難室に通じるドアの鍵を閉めていた人物がいたとの話もある。

避難所ではかった「防災センター」

 鵜住居地区防災センターは2010年1月に完成し、2月に開所した。「津波避難場所」ではなく、大規模災害が起きた時、中長期的に避難生活をする「拠点避難所」だった。市の広報資料でもそうなっている。

 では、多くの人がそこに避難したのはなぜか。実は、近くの鵜住居町仲町内会では、今年の津波の日(3月3日)の釜石市津波避難訓練で、同センターを訓練上の避難場所に設定していた。参加者は101人だった。

 仲町内会の避難場所は「常楽寺ほか西側高台」だ。しかし、その後の防災訓練でも、津波訓練でも、今年の津波の日の訓練同様に、同センターを避難場所に設定してきた。訓練の参加率を上げるために、近くにある同センターで行ってきたという経緯があったという。

多くの犠牲者が出た鵜住居地区防災センター

 「防災センター」という名前になったのにもワケがある。12月9日に釜石市第4庁舎で行われた「釜石市東日本大震災検証委員会」で参加した1人は、「同センターは本来、公民館としての機能が強い。しかし建設時、公民館としては予算が出なくて作れなかった。防災予算では作りやすかったので、『防災センター』という名前になった」と話していた。

 つまり、事実上の公民館を津波の避難場所として訓練を重ねてきてしまった、ということになる。そのため、本来、津波避難所としては適さない場所に避難してしまったのだ。

「これからのことを考えたい」

 検証委員会のメンバーで、鵜住居第2仮設団地自治会の会長・高橋淳さん(43)は、父親が仲町内会の会長だった。高橋さんの両親と祖母も同センターに避難。3人とも犠牲になっている。当時、高橋さんは盛岡市内に住み、トラック運転手をしていた。震災当時は宮城県名取市閖上付近で被災した。そのため、鵜住居の当時の様子は分からない。3月14日に鵜住居に入り、400〜500の遺体を確認した。

 「顔は見たことがあるが、名前が分からない人も多かった。母親は運転免許証を持っていたので、すぐに分かった。祖母も一発で分かった。でも、父親がなかなか分からないでいた。結局、DNA鑑定で分かったんです」

両親と祖母を亡くした高橋さん(左)と、漁師の久保宣利さん(右)は、仮設住宅のリーダーをしている

 指定避難所ではないところへの避難誘導は、生存者からも疑問の声が出ている。中には「裁判になってほしい」と願う声もあるという。そうした声に高橋さんはこう答える。

 「文句を言いたい人の気持ちも分かるが、どうしたいのか。行政が非を認めたとして、何をしたいのか? 今さら何を言っても仕方がない。これからのことを考えないといけない。まだ先が見えない」

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