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コラム

桜宮高校バスケ部キャプテンの自殺の原因は「体罰」ではない窪田順生の時事日想(3/4 ページ)

大阪市立桜宮高校で、バスケ部の顧問の教師に暴力を受けていた男子生徒が自殺した。この問題を受け、マスコミは連日のように「体罰」として取り上げているが、どうもしっくりこない。この教師がやったことは「体罰」ではないからだ。

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「体罰」という表現になった理由

 桜宮高校は大阪府の公立で初めて体育科を設置し、体育科の生徒はすべて部活動が義務づけられている。スポーツ推薦の評価が「戦績」であることは否めない。孫子さながらにてっとり早く強い軍隊を生み出せる男性教諭を校長らが重用し、彼もその期待に応えるよう熱心に「軍隊」を指導した。つまり、少年は教諭の立身出世のため、「捨て石」にされたのだ。孫子に首をはねられた女性のように。

 こういう状況を取材すれば、まともな感覚ならば「教師による虐待」とか「バスケ部顧問による主将いじめ」という見出しの記事ができる。某情報番組でも「夜回り先生」として知られる水谷修氏が、「これは体罰ではなくて虐待ですよ」とはっきり断言したが、こういうことを教えてくれるマスコミはない。

 なぜ猫も杓子も「体罰事件」と騒いでいるのか。たどっていくと年明け早々に大阪市教育委員会が出した発表にゆきあたる。

平成25年1月8日 10時30分発表

 教育委員会では、ただちに事実確認を行った結果、自殺前日に部活動の顧問教諭による体罰があったこと等の報告がありました。

 日本人からするとあまりなじみはないが、このような謝罪文からもスピンコントロール(情報操作)というのは始まっている。早々と「体罰」を認めて、「体罰防止」を掲げればマスコミの関心はここに誘導される。最悪の不祥事ではあるが、「教師によるいじめ」よりもマシだ。

 なぜこうもあっさりと釣られてしまうのかというと、マスコミが発表型報道に慣れきっているからだ。「記者クラブ」で役所の軒先を借りて広報ペーパー片手にくる日もくる日も記事を書かされる。習慣というのは恐ろしいもので、役所のつかう表現を疑うことなくつかうようになっていくのである。

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