偶然には偶然が重なるとよく言うが、小学校入学から社会人になった今まで平々凡々と暮らしてきた俺には「偶然」とか「奇跡」とかそんなものは全くの無縁だと、誰かに言い聞かされたわけでもないのに心の底から信じ続けていた。
確かに今回は少しばかり変わった出来事に遭遇したが、それも一時的な運勢の不調であって俗に言う奇跡体験みたいなものには無関係だと、ナチュラルな感覚で思っていた。
そう、実際にその「奇跡」を味わうことになるまでは――。
「憂欝だ……」
今年で社会人生活も数年になる俺の1日は、今日もこんな言葉で始まった。
俺の名前は宇津木憂介。仕事は順調とまではいかないが大きなミスもしない。まあいわゆる目立たない普通のサラリーマンを想像してくれればそれでだいたい正解だろう。
しかし、そう言い切ってしまうと「普通のサラリーマン」にくくられるその他の人々に失礼かもしれない。そう、俺の特徴といえばただ1つ、徹底的に「目立たない」のだ。
思えばこれまでの人生、自分にスポットライトが当たったのは幼稚園の発表会くらいだった。その時も主役をやるはずだったヤツが風邪で倒れ、たまたま背丈が同じくらいの俺が主役に抜擢されたんだっけ(むろん、代役の務めを果たした俺に、母親を除く誰からも称賛はおろか感謝の言葉もなかったのは言うまでもない)。
そんな天性の目立たなさは社会人になった今も遺憾なく発揮しており、毎朝会社に行っては誰とも話さないまま昼休みを迎え、誰とも話さないまま自席で弁当を食い、そして営業先以外の誰とも話さないまま帰宅する毎日。
そんな自分にうんざりしないわけでもないが、かといって転職したり自分を変えようなんてプラス思考は体内のどこを探しても見つからない。
そうやって今日も、ただなんとなく憂欝なだけの普通の1日が始まるはずだった――。
「グチャっ」
イヤな感触が、寝坊して会社へと急ぐ足の裏から伝わってくる。……これはどう考えても家畜として一般的な4足動物の排泄物、いわゆる犬のフンを踏んだ時の感触だ。なんてこった。足下にへばりつく残留物を落としながらすり足で歩いていると、次の瞬間には……
マンホールから転落した。
これは悪夢だ。悪夢に違いない。そう自分に言い聞かせるが、少なくともこの全身の痛みは現実のものと考えざるを得ないだろう。漫画のような典型的な不幸が次から次へと降ってくる。その後も電車とホームの間に挟まれたり、見知らぬ老婆に怒鳴られたりと、さわやかな朝とは対極の位置をキープしながら1日の幕が開けた。
全身にキズや打撲を負った中でなんとか会社にたどり着き、時計を見上げるととっくに午前10時を過ぎている。……もちろん遅刻だ。しかし、そんな俺を叱りつける人はおろか、からかってくる奴すら1人もいない。
「自分ってつくづく空気のような存在だよな」――そんな自嘲じみた実感をかみしめながらノートPCに電源を入れた。その時だった。
「ぷ……ぷぷ………あははっ。なにコイツ、情けない。それになんかクサいし……」
オフィスに1人の女の笑い声が響き渡る。
ミニスカート姿にポニーテールをぶらさげた推定20代中盤の若い女。
しかしだ。こんな失礼な女がうちの会社にいただろうか? 確かに俺の社内コミュニケーション能力が著しく不足しているのは否めないが、少なくともこんな挑発的でふしだら(勝手な想像だが)な若い女子社員を見逃すわけがない。
あっけにとられつつも怒りに震える俺をよそに、IT部門の部長がおもむろに口を開き始める。
「今日から皆と一緒に働いてもらう、IT部門に中途入社した桜坂くんだ」
6月の今に中途入社? それに桜坂……桜坂……どこかで聞いたことのあるような名前だ。思い出せそうで思い出せない、微妙な心待ちのまま数時間が過ぎ、営業時間を終えようとしていた。その時――
「アンタ、もしかして私のこと思い出せないの?」
この高圧的な口調、人をからかったような視線、そしてどこか見覚えのあるポニーテール。
しばしの沈黙の後、ある1つの名前が俺の脳裏を横切った。
「……彩乃……!?」
そうであってほしくない――そんな一筋の願いを心の片隅に置きつつ、おそるおそるその名前を口にする。
「そう、今日からアンタと一緒の会社で働くことになったから」
恐れていた最悪の答えは、まるで当たり前かのようにごく自然に返ってきた。
幼稚園に入る前からずっと近所で過ごし、年齢的には1つ下のはずなのに陰湿な嫌がらせで俺を引っ越しまで追い込んだ幼馴染――桜坂彩乃。思い出せなかったわけだ。無意識のうちに閉ざしていた悪夢の記憶が、まるで眠っていたコンピュータに電源を入れるかのように今無理やり覚醒させられた。
「ようやく思い出した? そう、私は今アンタの会社のIT担当者ってわけ」
なんという不運な偶然だろうか。だがしかしまあ、IT部門ならしがないいち営業の俺と直接かかわることはないだろう……。そう安心しながらPC画面に視線を戻したその刹那、彩乃の口から信じられない一言が飛び出した。
「とりあえず、アンタのそのPC、今日から使用禁止。これのテストをしてもらうから」
次の瞬間。どこからともなく屈強な男たちが現れ、ものの3分もしないうちに俺のデスクの上からPCやそれに付随する全てのものがすっかりきれいに片づけられた。
PCが撤去されていつもより広くなったデスクの上に、ポツリと置かれたのは彩乃から半ば無理やり手渡された8インチのWindowsタブレット「Dell Venue 8 Pro タブレット」。彩乃いわく、約400グラムの軽量ボディーにフル版のWindows 8.1と最大1.8GHzまで拡張できるクアッドコアCPUを搭載し、仕事でもバリバリ使えるだけの性能を秘めているらしい。
「最近のタブレットってすごいらしいわ。だってWindowsが使えるのはもちろんのこと、Microsoft Office 2013もプリインストールされて3万円台から買えるんだもの。これが本当に使い物になるならIT担当者的には万々歳だけど、いきなり導入ってワケにはいかないから見るからに仕事ができなそうなアンタで実験することにしたの」
だからといってPCを取り上げることはないだろう。
「……おい。キーボードは? マウスは?」
俺の至極まっとうな質問に聞こえないふりをして、さっそうと帰宅していく彩乃。こうして今日から、俺のタブレットテストユーザーとしての苦難の日々が始まった……。
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突然の「PC禁止令」を下された憂介。タブレットだけでの仕事はうまくいかず、女上司のマリからきつ〜い一言が!? 連日の深夜残業でへとへとになった憂介のもとに、彩乃があやしげな物体を手にして現れ……。
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