改行の所作がまだ美しかったころ――Olivetti「Lettera 32」:矢野渉の「金属魂」Vol.16
PC USERのカメラマンとして活躍している矢野渉氏が、被写体への愛を120%語り尽くす連載「金属魂」。第16回はPCやワープロの前に活躍した名機を振り返る。
あこがれていた海の向こうの工業デザイン
1970年代は、僕がちょうど中学、高校、大学時代を過ごした10年間と一致する。大学を1年留年して就職したのが1981年だから、この10年間が僕の感性を形作ったとも言えるのだ。
今思い返してみても、70年代は本当に楽しかった。あらかじめ予定されていたように推移していくバブルの80年代に比べ、明日は何が起こるか分からないような期待感と、妙に醒(さ)めた、シラケた思いがない交ぜになったような不思議な時代だった。しかし、それでも確実に楽しかったのである。
僕らは中学生になり、三島由紀夫が自決し、初めてジーンズをはいた。
70年代はファッションとともに始まった。JUN、VAN、オニツカタイガーのハイカットのバッシュ、ブリーチアウトジーンズ……。とにかくカッコよく、がすべてで、そのためにはどんな苦労も惜しまなかった。服を買うのに店を2、3件はしごするのは普通だったし、どうしても気に入らないジーンズなどは、自分でミシンを使って縫い直したりもしていたのである。
同時期に日本人デザイナーが次々と世界デビューを果たしたことも、日本人がデザインに注目した一因だろう。山本寛斎、高田賢三、三宅一生などはスター扱いされていた。文化服装学院(ブンプク)の「装苑賞」は世界への登竜門となったし、そのころの僕のアイドルはファッション雑誌「装苑」モデルのマイティ・ルエロンだった(今で言うと、佐々木希のような存在か)。
日本人も世界に通用するデザインが創(つく)れるということは証明された。しかし、そのころ、どうしても日本人が勝てない分野があった。それが「工業デザイン」である。
日本の街中で見かけるカッコイイ車、あるいはショーウインドウで目を引く斬新なデザインの工業製品はほとんどがイタリア人デザイナーによるものだった。何が違うのかと問われても、具体的に答えることはできない。歴史の重みの違い、あるいは民族としての「血」の違いとしか言えない。日本人は「使いやすい」デザインは得意なのだが、「使いやすくてカッコイイ」デザインがこの時代にはまだできていなかった。ましてイタリアの工業製品で時々見かける「使いにくいが、それも許せるほどカッコイイ」デザインは、たぶん永遠に無理なのだと思った。
デザイナーの顔が見えるタイプライター
さて、「Lettera 32」(レッテラ32)である。僕はこのタイプライターを1976年に購入している。大学に入ってすぐのことだ。PCはもちろん、ワープロもない時代だ。和文タイプは特殊な技能で、それだけで職業になるくらい難しかった。とりあえず将来に備えて英文タイプでも覚えるか、というような軽い気持ちだったと思う。
早稲田通りと明治通りの角にあった「平和堂」というディスカウントショップで、僕はさまざまなタイプライターを眺めた。Olivetti(オリベッティ)の製品を買うことだけは決めていた。そのころ、OlivettiはテレビCMを流していて、「赤いバレンタイン」がやけにカッコよく見えたのだ。四角いバケツ形のケースから本体を引き抜くと、赤いボディと、むき出しになった印字部分の黒、そしてインクリボンのストッパーの黄色が鮮烈な印象を与えていた。
今考えると恐ろしいのだが、あのテレビCMの女の子はケース込みで5キロ超のブツを軽々と振り回していたことになる。あの時代の「ポータブル」という意識はそのレベルだったのだ。
しかし残念なことに、バレンタインのボディは樹脂製だった。金属の、もっとかっちりとした物が欲しい。「Lettera Black」という選択肢もあった。銀と黒のツートーンのボディはなかなかのものだったが、いかにも男性用、と意図されたデザインが逆に鼻についた。
そして僕が選択したのがLettera 32だった。この3機種の中では最も古い製品だ。一見地味、事務的、そして中性的なデザインに思える。しかしこの何気ない存在がニューヨーク近代美術館(MoMA)に永久保存されているのだ(実機はこの前のモデルのLettera 22)。まだ二十歳前の僕には、そのデザインのよさなど分かるはずもない。それでも何か感じるものがあったのだろう、僕はLettera 32を買い、マルチェロ・ニッツォーリという工業デザイナーの名前を覚えた。
35年経った今、しみじみと眺めるとニッツォーリの意図がよく分かる。赤いバレンタインのデザイン(こちらもMoMAに永久保存されている)とは真逆の方向性を持ったデザイン、ということだ。もともと手動タイプライターはメカのかたまりである。金属と金属のかみ合わせで力を伝え、あらゆる動力にバネを使っている。そのからくりは見ていてほれぼれとするほどだ。この美しさを積極的に見せようとしたのがバレンタインであり、極力隠そうとしたのがLettera 32なのである。
メカ部分をほとんど覆いつくす緩い曲線を持ったカバー。スウェーデン鋼の鋳物だ。しかし表面は滑らかな梨地(なしじ)仕上げで、それが金属であることさえ忘れさせる。ペイントがまた、リノリウムの床のような微妙な色だ。とにかく内部のメカと本体の金属感を極力なくし、人間のいる空間の中で存在が突出しないようにデザインされている。
しかし、ニッツォーリはここでたった1つだけ、この機械が自ら主張するデザインを施した。
人はタイピング中にタイプライターを見ない。慣れればタッチタイピングであり、目は印字を追っている。1行を書き終え、ベルがチン、と鳴り、人はここで初めて機械の一部に目をやる。それが、改行および行の頭に移動するためのレバーだ。左手をレバーに伸ばすために、人はほんの一瞬だけレバーを見る。
Lettera 32はここに、アルミ鋳造の、本当に美しい曲面を持ったレバーを用意した。部材の中で一番高価なのではないかと思う。鉄では触ったときにひやりとするが、このアルミのレバーはそれほどでもない。そしてこの手になじむ形。これは1行を書き終えた人間に対する「癒し」なのだろう。
工業デザインには必ず「意図」がある。それを読み解いていくことは、工業デザイナーの人となりに近づくことである。その先の彼、または彼女が、優しい顔で微笑んでいたら、その製品は「愛でるべき作品」なのである。
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