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» 2016年03月08日 08時00分 UPDATE

東京下町の町工場が15年で取引先を120倍にできた理由 (1/2)

減少し続けている東京下町の町工場。そうした苦しい時代の中でも取引先を15年で120倍に、売上を20倍に増やし、成長し続けている町工場ある。

[鈴木亮平,ITmedia]

 東京下町にある町工場が減り続けている――。かつて大田区や墨田区などの下町は、工場の集積地として栄えていたが、景気の悪化や、大手メーカーの生産拠点が海外へ移ったこともあり、年々縮小の一途をたどっている。墨田区では45年前に1万社ほどあった町工場が現在、約3000社にまで減少した。今もなお、減少が続いている。

 しかし、そうした苦しい時代の中でも取引先を15年で120倍に、売り上げを20倍に増やし、成長し続けている町工場が墨田区にある。「精密板金加工」などを手掛ける浜野製作所だ。多くの町工場が姿を消していく中、一体なぜ同社は成長することができたのか。社長の浜野慶一氏に話を聞いた。

photo 浜野製作所

量産型から一品物・試作品の仕事へ

 新しいことにチャレンジしなければ生き残ることはできなかった――。浜野氏はそう語り、当時を振り返る。

 浜野製作所は1968年に浜野氏の父親、浜野嘉彦氏が創業。最初は部品を量産するために使われる「金型」作りがメインだった。当時は景気も良く、その金型を使った部品の量産も請け負っていたという。

 しかし、バブル経済が崩壊した後は、大手メーカーが生産拠点を人件費や土地の価格が安い海外に移すようになり、量産の仕事は海外の工場へ流れていった。量産の仕事を請け負っていた多くの町工場が苦境に立たされた。

photo 町工場数の推移

 そうした状況で生き残るためには、環境の変化に合わせて戦い方を変えていく必要がある。そこで1993年から工場を継いでいた浜野氏は2000年ごろ、量産型の仕事ではなく、精密板金加工と呼ばれる手法で、少量多品種の部品を生産することにシフトチェンジしたのだ。

 「土地や人件費が高い東京は、日本全国の中で一番モノ作りに適していない場所だと思う。大資本を持つ企業とは違う、下町の町工場としての戦い方が求められていた」(浜野氏)

 大企業の工場は、効率的に利益を上げられる量産型の仕事を得意とするが、逆に試作品などの「一品物」や「少量多品種の部品」の生産に対し、柔軟に対応することには向いていない。浜野製作所では「こんな形の部品、製品は作れないだろうか」といった顧客からの相談に対して、一つ一つ柔軟に対応していくことに特化することで取引先を伸ばしていった。

 足の不自由な患者がつかまり立ちで、歩行できるようにするための「リハビリ用器具」や、食品メーカーからの特注による「パン焼き器」など、取り扱う少量多品種の製品は多岐にわたる。

 量産の仕事に比べれば利益率は低いが、この少量多品種の製品や試作品、一品物の製造をメインにしたことで、結果的に量産型の仕事の受注にもつながっているという。

 「量産の仕事の場合は高額な案件になるため、簡単に注文をとってくることができない。しかし、試作品などの一品物であれば受注のハードルは下がる。まず、試作品の仕事で当社の存在、技術力を知ってもらうことで顧客との信頼関係をつくり、そこから量産型の仕事ももらうという流れを確立することができた」

photo 精密板金加工を行う工場

 顧客との接点、信頼関係を作ることで、小さな仕事から大きな仕事へつなげる。これも取引先、売り上げを伸ばした一つの要因だが、成長の背景は、町工場の常識を変える数々の新しい取り組みにある。

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