ガリガリ君とカップヌードル「攻めたCM」の命運を分けたものはなにかスピン経済の歩き方(3/5 ページ)

» 2016年04月12日 08時05分 公開
[窪田順生ITmedia]

命運が分かれてしまった理由

 一方、「カップヌードル」のCMがかなり攻めているというのは今さら説明もないだろう。「いいぞ、もっとやれ」のキャッチコピーのもと、梅宮辰夫さんにセーラームーン風コスプレをさせたり、古谷一行さんに「犬神家の一族」のパロディをやらせたり、「くだらない」ものを真剣につくるというアグレッシブさは、「ガリガリ君」に負けていない。今回のCMもそのスタンスはまったくブレていない。

 では、ともに「攻めたCM」だったにもかかわらず、なぜ「称賛」と「放映中止」と命運が分かれてしまったのだろうか。

 ネット上で大合唱される「矢口真里なんか起用するからだ」という怒りの声はさておき、2つのCMの違いはなにかと考えていくと、そこには「作為」という言葉が浮かび上がる。

 「ガリガリ君」の謝罪CMはいたってシンプルだ。フォークソングは流れているものの、黙って頭を下げる社員のみなさんの姿からは、「笑ってください」というギラギラした「作為」は一切感じない。これは、「ガリガリ君」というブランドの基本姿勢が大きく関わっている。

 実は「ガリガリ君」には、「ブランディング」という言葉にはお約束のようにわいて出てくる企業や製品の公式アカウントがない。情報発信はあくまでプレスリリースという昔ながらの手法にこだわっているのだ。その理由を、マーケティング部の萩原史雄次長が2014年5月8日の『日本経済新聞』で以下のように語っている。

 拡散させようとすればするほど、わざとらしくなる。

 あの謝罪CMに多くの人が好感を抱くのもこれが理由だ。「おもしろいでしょ、みなさん拡散してくださいね」という企業側の「作為」を感じないので、「ガリガリ君の会社っておもしろいな」と素直に受け取ることができるのだ。

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