第7回 震えるひざを押さえつけ奇跡の無名人たち(1/2 ページ)

椿森電器との契約もめどがたち、営業所の存続も見えてきた。しかし、どうして個人向けに営業していたクオーターが法人営業をしていたのか。日本語の説明があれほど苦手なクオーターがなぜ――。

» 2008年10月01日 10時00分 公開
[森川滋之,ITmedia]

前回までのあらすじ

 ある通信事業者から営業所長を頼まれた吉田和人だったが、最初の1週間の営業成績は0回線。巻き返しを図る和人は、本部に内緒でチーム編成を刷新する。それが功を奏して、徐々に結果も出てきたが、目標には遠く及ばない。営業本部からは営業所の統廃合を脅される始末。

 和人は「オレは負け犬さ」とふさぎ込むが、そんな折、椿森電器から「おたくの社員がうちに来ている」と連絡を受ける。これまで個人向けの営業担当だったクオーターが、なぜか法人営業をしているというのだ。つたない日本語で説明するクオーターに代わり、和人が説明すると、椿森電器の担当飯田は「これならすぐに決裁が通りますよ」と回答した。

 急場をしのいだ和人だったが、なぜ、クオーターは法人営業していたのか。2人は最寄り駅のそばの喫茶店に入った。モーツアルトのジュピターが流れていた――。

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 モーツアルト最後の交響曲第41番「ジュピター」。その最終楽章が流れていた喫茶店、和人とクオーターの2人は向き合って黙り込んでいた。金管楽器が響き渡り始めたあたりで、クオーターが語り始めた。なぜ自分が嫌がっていた法人営業に行こうと思ったのかを――。

 「所長さんが、本部から暗い顔して帰ってきた次の日に、アネゴさんが営業全員とチェッカーさんに一緒にご飯を食べようと誘ったんです」

 部下に顔色を読まれていたのか……。まだまだ未熟だな、と和人は恥ずかしくなった。

 「アネゴさん、言いました。所長さんが、どんなひどいこと言われてるか、みんな知ってるの、って」

 そうだったのか……。


 話は10日ほど前だ。和人がアネゴに、今月ノルマを達成できなければF市の営業所と統合されてしまうという話をしたあとにさかのぼる。

 アネゴは考えた。

 もしそうなったら、当然所長はクビ。事務も2人はいらない。単価が高い自分は間違いなく切られる。チェッカーだけでも残れれば自分は良いのだけど、それも保証はない。

 営業はどうだろう。ジンジは元々社員だから問題ない。イケメンあたりは残れるかもしれない。でも、ほかは「個性的」過ぎる。たぶん残れないだろう。統合といっても、実質は廃止である。

 所長は半分あきらめている。所長のヨミでは、100回線足らないという。ベテランの所長のことだから、ヨミは当たるかもしれない。

 でも、でも……。100回線なら、1つでも大口の契約が取れればなんとかなる。そんなに簡単にあきらめていいものだろうか。

 あの時、所長に「みんな、ただの負け犬になっちゃう」と言った。暴言だったかもしれない。ただ所長は、負け犬という言葉に反応した。顔色が明らかに変わったのだ。もしかしたら、その言葉が一番こたえたのは所長なのかもしれない。言うべき言葉ではなかった。でも「それって、本当は自分に言ってたんです、所長」――。


 アネゴは、専門学校を出て、ある一流と言われる商社に事務職で入った。アネゴの実家は裕福ではなかった。子供のころに父親を亡くした。母親がパートの仕事をしながら、育ててくれた。専門学校にはバイトしながら通ったものだ。

 片親なのに財閥系の商社に入れたのは、彼女が優秀で学校の推薦があったからだ。表向きにはそういう差別はなくなったが、同じぐらいの能力であれば、氏素性のいい子が採用されることは今でも多い。コネも厳然としてある。それらを吹き飛ばすぐらいアネゴの優秀さは卓越していた。採用辞令をもらったとき、母親の喜びようはなかった。

 一生この会社に勤めるつもりだった。腰掛けのつもりは全くなかった。顔立ちのいいアネゴは、男性社員に人気があった。思ったことをズバズバという性格も男性に好まれた。でも、それは同僚や先輩からは好まれる性格ではなかった。それにキャリアを積んで専門職になりたいと考えていたアネゴに浮ついた気持ちはなかった。男性社員に人気はあっても、その誘いを断り続けていた。

 ある日、エリートコース間違いなしという男がアネゴを食事に誘った。自信満々のその男は、会社の廊下で誘いの言葉を口にした。アネゴは、やんわり断ったが、それを見ていた先輩事務がいたのだ。彼女は、その男にアプローチしていたが、問題にされていなかった。

 それからだった。誰もアネゴを食事に誘ってくれなくなった。飲み会からも外された。一方、残業が回ってくることは多くなった。

 気の強いアネゴは、それでもしばらく頑張っていたが、ある重大なミスを全部自分のせいにされて、それを部長に叱責されたとき、すべてがバカバカしくなった。翌日、辞表を出した。母親には我慢が足りないと言われた。アネゴは、泣きながら謝った。母に申し訳ない気持ちと悔しさの入り混じった涙だった。

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