「投げ銭」の依存性 “推し疲れ”の一側面を解明するニッセイ基礎研究所(3/3 ページ)

» 2022年12月25日 07時00分 公開
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4――オタクをしている上で避けられないこと

 現代社会で推し活をしていく上で、コミュニティー(他のオタクとの交流)に身を置くことは避けられないことである。いくら他のオタクと距離をとりたくとも情報収集をする上では、SNSを利用する必要があり、また投げ銭を行うプラットフォームもそのほとんどがオープンであるが故に他のオタクと同じ場に参加する必要があり、他のオタクのコメントや投げ銭動向を見ざるを得ない状況にある。

 そのため、自身の推し活と他人の推し活を比較せざるを得ない機会も無数に存在することになる。また、オタク界隈(かいわい)には昔から「ガチ恋勢」という言葉が存在する。「ガチ恋勢」とは、アイドルタレントや二次元キャラクターなどを本気で恋愛対象として見てしまっているファンのことを指す(※12)。

(※12) リアルに恋してしまっていることから「リアコ」という言い方をすることもある。

 本気の恋愛対象であるが故に自分が1番のファンでなくてはいけない、自分が1番に推しを支えなくてはいけないという、義務感に駆られているファンもおり、他のオタクの消費動向も可視化されてしまう投げ銭というシステムは自身の価値を推しに見出してもらおうとする手段として強い依存性があるのである。オタ活の本質は自身の精神的充足にある。その一つである推し活は他人の存在から自身の生きがいを見出す行為であり、そもそも推しの存在に依存している側面が強い。それ故に自身の精神的支柱である推し=依存対象から自身の存在を認識してもらう手段となる投げ銭にも強い依存性が生まれるのである(※13)。

(※13) 従来の疑似恋愛ビジネスの様相を持つホスト遊びの様に自身の担当(指名しているホスト)をNo.1にしたいが故に大金を支出する顧客とその支えを受けるホストとの共依存の関係に似ているのかもしれない。推し活の対象であるアーティストやアイドルの場合収入源の主が投げ銭ではないが、ファン視点で言えば他のオタ活手段よりも最も自身の消費が直接推しに認識してもらえる手段であり、感謝をされる、反応してもらえるというアクションが疑似恋愛のごとく頼られているという感覚を生むのかもしれない。

5――まとめ

 筆者自身もオタクの端くれであるが故に、投げ銭の心理や他のオタクと競ってしまう心理は痛いほどに分かる。ただ、オタ活の根底にあるのはわれわれ自身の経済力や人脈、スキルといった社会生活を送る上での元手となる「実資本」であり、他のオタクと比較するという事は他のオタクが実社会で擁する「実資本」と競うことと同義なのである(※14)。

(※14) 詳しくは「若者のオタク化に対する警鐘−若者の考える「オタ活」とオタクコミュニティの現実」を参照されたい。

 自身が投げ銭で競っている相手は、既に経済的に成功した大人である可能性が多い中で、経済資本を親に依存せざるを得ない学生が彼らと競おうとすること自体が無理な話であるのだが、前述した通り有形物の購入などとは異なり気軽に送金ができてしまうからこそ、競争心理や依存性が簡単に生まれてしまうのだろう。

photo 図3 実資本がオタ活の充実度(ファン資本)に影響する

(※15)「ファン・コミュニティにおけるヒエラルキーの考察─台湾におけるジャニーズファンを例に─」『情報学研究 : 学環 : 東京大学大学院情報学環紀要』 78, 165-179

 推しに消費することが安寧感をもたらす感覚も理解できるが、自身の実資本と見合わない推し活をすることは、精神的充足活動である推し活からかえってプレッシャーを感じ、昨今言われる「推し疲れ」のように「推す」ことをやめたいと感じるきっかけを生みかねない。自分のために推したいから推すという感情から、他人と比較して推さなくては(消費しなくては)ならないという義務感が生じてしまうのは本末転倒である。

 オタクの消費は青天井である。突き詰めていけば消費したいという欲求は拡大していくばかりである。「推しは推せるうちに推せ」という言葉がオタクのコミュニティーには存在するが、筆者自身は周りのオタクの消費のペースに引っ張られず、「推しは推せる範囲で推せ」という言葉も併せて念頭において欲しいと思っている。

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