クビレズタという熱帯・亜熱帯地域に生息する海藻の一種で、ぶどうの房のような見た目からその名が付いたという「海ぶどう」。プチプチとした弾ける食感や程良い塩味、深い緑色が特徴で「グリーンキャビア」との異名もある。
沖縄県を代表する食材の一つ。昔から宮古島で天然ものが食用藻とされ、現在は陸上養殖が可能になったことで那覇空港や国際通りの土産品店でもよく見かける。観光に行ったら「必ず食べたい」というファンも多い。
ただ、養殖は簡単ではない。多くの良質な海ぶどうを通年で生産するためには塩分濃度や温度、光量などデリケートな管理が必要になる。
悪戦苦闘の末、安定した生産体制を築いて事業の拡大に成功している企業がある。沖縄本島南部の糸満市に養殖場を構える日本バイオテックだ。自社で育てた海ぶどうを活用して2次産業や3次産業も手掛ける「6次産業化」を進めるほか、販路を広げて世界14カ国への輸出も行う。コロナ禍で初めて1億円を超えた年間売上高は、昨年9月期の決算で1億5000万円に達した。
「海ぶどうを世界ブランドへ」という理念の下、多角的な戦略を仕掛けるアイデアマンの山城由希社長に話を聞いた。
那覇空港から車で約20分。沖縄本島の南部、糸満市真栄里。
さとうきび畑やハウスが並ぶ細い農道を抜けると、美しい東シナ海を望む海岸エリアに「海の家」を思わせる木造の建物がいくつか見えてくる。隣にはハウスに囲まれた海ぶどうの養殖場も。日本バイオテックが事務所を構える複合型体験施設「海の道(うみんち)」である。
もともとは那覇市出身である山城社長の父・幸松さんが、1985年に空気清浄機の販売会社として東京で立ち上げた同社。海ぶどうを扱うようになった経緯は何だったのか。
「父は沖縄が日本に復帰(1972年)する前に東京の大学に進学し、そのまま向こうで起業して事業を営んでいました。その間もずっと故郷に対する思いがあり、沖縄関連の事業をしてはことごとく失敗していたのですが、NHKの『ちゅらさん』などで沖縄ブームが到来した2000年頃に新宿で沖縄物産展を開く機会がありました。その時に飲食店から海ぶどうの引き合いがとても強く、『この食材は世界へ持っていけるんじゃないか』と可能性を感じ、取り扱いを始めたんです」(山城社長)
首都圏の沖縄料理屋や居酒屋などに販路を広げ、2005年には現在の「海の道」がある海岸沿いで養殖を開始。以前は別事業者が車海老の養殖を行っていた土地で、事業停止後に放置されて当初は海が見えない程の高さまで草が生い茂っていたという。養殖場と事務所を手作業で建てたり、沖縄を象徴するハイビスカスを挿し木したりして少しずつ整備していった。
養殖場の見学ツアーや摘み取り体験を受け付けるほか、自社開発した海ぶどうアイスや海ぶどうレモンスカッシュを直売所で販売したり、キャンプやバーベキューを楽しんだりできる。コロナ禍前のピーク時には体験だけで1日に200人が来ることもあったという。
近年はコロナ禍が明けたことで再び誘客に力を入れ始めた。栽培中の海ぶどうにLEDライトを当てると成長点が宝石のように輝く特性を生かしたナイトツアーを昨年末から開始。今年8月には事務所がある建物の2階で、海ぶどうをたっぷりと乗せた沖縄そばや丼などが味わえる「海ぶどう沖縄そばの店 ぷちぷち」をオープンした。
山城社長は「私たちは海ぶどうを『もっと知ってもらいたい』『価値を上げたい』という思いでスタートしたので、観光客を呼び込むなどしてオープンな養殖場を目指しています」と、3次産業を手掛ける理由を語る。
商品開発に注力することにも明確な背景がある。
「食品の生産をする中で、捨てるものをいかになくすかは大きなテーマの一つです。15年ほど前に海ぶどうアイスを作りましたが、その時は茎の部分が市場に出回らず廃棄する量が多かったので、その部分を有効活用したいこともあって開発しました。サプリメント向けの粉末商品も扱っていますが、これも以前は廃棄していた部分を使っています」
企業理念や効率的な経営のあり方を追求する中で多彩なアイデアが生まれ、自然と6次産業化の形を成していった。
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