先日、Facebookを眺めていたところ、アルゴリズムが流してきた短いリール動画が目にとまった。そこには、トヨタ自動車代表取締役会長である豊田章男氏が「50代こそ、馬車馬のように働かせろ」と語る姿が映っていた。
さらに豊田氏は続けて「55歳で『もう自分は次の世代に替わります』というのは『敵前逃亡』だ」とまでいい切った。
強い言葉だった。しかし、それは決して思いつきの暴論ではないだろう。むしろ、現在の日本産業が直面する
――といった課題を、正面から問い直すきっかけとなる発言だった。本稿では、豊田氏の発言の根底にある視点を掘り下げ、
――という問いに、トヨタを含むモビリティ産業の現場と企業戦略から迫る。
50代こそね、馬車馬のように働かせろっていってるんですよ。50代が一番働くべきときだと思いますね。60代だったらさすがに次の世代のことを思った方がいいと。その意味はね、やっぱり私(が)50代だったからこそね、ああやって、米国の公聴会からすぐ中国に行って、中国から日本に戻ってきて、名古屋でぶらさがり(取材)して、報道ステーションに出るというね、あんなことね、今やれっていったらやりますけどね、大変だと思いますね。
ですから、やっぱり50代のときにね、馬車馬のように働くためには、40代をどうやって過ごさせるか。その40代をそのような形でさせるためには、30代はどういう教育体制が必要なのか。そういうことを考えるのが、55歳の役割であって、「もう自分は次の世代に替わりますね」というのは「敵前逃亡」っていうんだよ(会場笑)。そういうね、次の世代のことも考えてやるんじゃないでしょうか」(Facebookのリール動画より)
働き方改革、定年延長、ジョブ型雇用など、雇用をめぐる議論が混迷を極めるなかで、「50代こそ働け」という主張は逆行的にすら見える。しかし、問題は負担軽減ではなく、どこに仕事の中核を置くかという配置の再設計にある。
20〜30代は学習と試行のフェーズにあり、40代は現場と経営の中継ぎとして組織の論理を体得する段階だ。だが、
――といった局面では、経験・速度・判断を高次に融合できる層が必要になる。50代は体力が残されており、かつ経験値も最も高く、外部との交渉能力や社内政治の均衡感覚も成熟している。つまり、最も高負荷の仕事を遂行できるポジションにある。
この世代が仮に働きを手控えるとすれば、問題は本人の気力ではなく、企業の側が適切な責任と裁量を与えていないことによる。求められているのは過労ではなく、意思決定と行動の重責を50代に正確に割り当て直す視点である。
豊田氏は「自分は次の世代に替わります」という発言を「敵前逃亡」と表現した。この言葉は、現場に残された人間に重い意味を持つ。
かつて日本企業は、50代で役職定年を迎え、60歳までの数年間を閑職で過ごし、あとは年金とともに去る、というモデルを採用していた。しかし現在、60歳以降も再雇用で働き続けるのが一般化し、かつ40代以下の人材は人員構成上の理由からも少数派となっている。つまり、50代がその役割を引き継ぐ対象が、現実には不在である。
このような現実のなかで、次の世代へ引き継ぐという言葉は、責任の転嫁でしかない。組織のボトルネックは引き継ぎによっては解消されない。変化の多い業界では、未完成な判断を未成熟な後輩に託すことは、組織全体のリスクを増幅させる。今や引き継ぎとは、業務軽減ではなく、判断停止を隠蔽する言葉になってしまっている。
したがって、豊田氏の発言は、役割のバトンを渡すという発想そのものを問い直している。重要なのは、何歳で仕事を引き継ぐかではない。今、自分にしかできない判断を誰が担うのか、という問いへの向き合い方である。
特にモビリティ産業においては、従来の内燃機関から電動化、自動運転、MaaSへと技術と市場の重心が移るなかで、戦略の立て直しが迫られている。その過程では、技術と経営、政策と社会受容性、国際標準と企業連携など、多数の変数が複雑に交差する。
こうした環境では、単一の知見や役職だけで全体を捉えることは不可能になる。
――といった判断材料をフル活用できる人材が求められる。現在の50代は、バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、コロナ危機などをくぐり抜け、技術と経営が重なる現場を歩いてきた最後の世代である。
例えば、電気自動車(EV)への移行にあたっては、エネルギー政策と充電インフラ、国際関税交渉と原材料確保、ライフサイクルアセスメント(LCA。製品やサービスが原材料の採取から廃棄・リサイクルまでの全過程で、どれだけ環境に影響を与えるかを評価する手法)とブランド戦略の全体設計が必要になる。
このような重層的判断に耐えうるだけのキャリアを積んだ人材は、40代以下にはまだ少ない。60代以上は、技術革新の速度に順応するリスク感度が落ちてくる。50代を動かさずに誰が動かすのか、という問いに対する実務的な答えが、豊田氏の言葉である。
さらに特筆すべきは、米国の公聴会から中国、日本、名古屋、そして報道番組出演という豊田氏の実体験である。これらは移動距離の問題ではない。
――という異なる場面での発言の一貫性と即応力を要求される。これは移動能力ではなく、判断と行動を同時に最適化する能力に他ならない。
モビリティ産業にとって、移動する力とは製品の設計思想にも関わる視座である。AIや通信技術を活用した自動運転は、移動を人から解放しつつも、最終的な制御と責任は依然として人に帰属する。製品も経営も、人間が動いて初めて意味を持つ。
だからこそ、判断力と身体の可動性が残された世代に、もっとも過酷な意思決定と移動を担わせることは必然となる。
「50代こそ、馬車馬のように働かせろ」という発言は、時代錯誤にも聞こえる。しかし、本質はそこではない。意思決定の最終責任を誰が負うべきか、という問いに対して、日本社会はあまりにも曖昧(あいまい)な態度を取りすぎてきた。
人材の過不足の問題でも、世代間の感情論でもない。誰が責任を引き受け、動き、次代に「語れる背中」を見せられるかという問題である。戦線を離れ、判断を避け、次の世代に責任だけを回す態度こそ、「逃亡」と呼ばれるに値するのではないか。
だからこそ、豊田氏の言葉は挑発的なのではなく、極めて現実的である。「敵前逃亡」という強い表現が物語るのは、産業の最前線に立ち続ける責務を自覚する覚悟であり、その覚悟なしにはモビリティ産業も企業も、日本社会も、再起不能になる。
この言葉を、ただの働き方論で終わらせてはならない。今を担うべき世代が動かないことの帰結が、どれほど致命的であるか。その現実を直視するところからしか、次の一歩は始まらない。
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