広島県南西部に位置する府中町。そこに本社を構える中堅自動車メーカーがマツダだ。同社は2000年代後半に経営危機に直面したが、その後、世界的な評価を得るまでに再生を遂げた。その転機となったのが「魂動」(こどう)と呼ばれるデザイン哲学である。そして、その中核を担ったのが、一人のデザイナーだった。
「ワールド・カー・オブ・ザ・イヤー」(WCOTY)は、世界30カ国のモータージャーナリスト96人が選考にあたる国際的な賞で、2004年に創設された。初回の2005年にはアウディ・A6が受賞。その後、日本メーカーとしては4回の受賞歴がある。
マツダはそのなかでも特異な存在だ。
2008年にデミオ、2016年にはロードスターで、唯一2度の栄冠を手にしている。さらに「ワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤー」でも、2016年のロードスター、2020年のMAZDA3と2冠を達成。ドイツの名門ブランドが並ぶなかで、異例の快挙となった。
これらの受賞をきっかけに、世界のメディアが「なぜマツダなのか」注目し始めた。その関心は、デザイン評価にとどまらない。広島に拠点を置く地方の自動車メーカーが、いかにして独自の設計思想を世界に打ち出したのか。そこに、マツダの存在感を決定付ける要因があった。
2008年にWCOTYを受賞したマツダ・デミオ。そのチーフデザイナーを務めたのが、現在マツダのシニアフェローである前田育男氏である。
当時のマツダは、1996年からフォードの資本傘下にあった。2001年にはブランドメッセージ「Zoom-Zoom」を打ち出し、新しいブランド像を具現化するモデルを相次いで市場に投入していた。
2009年4月、前田氏はフォード出身のローレンス・ヴァン・デン・アッカーの後任としてデザイン本部長に就任した。父親は初代マツダ・RX-7のデザインを手がけた元デザイン本部長。その影響もあり、前田氏は1982年にマツダへ入社した。
前田氏が掲げたのは、抽象論ではなく、明確な「カタチ」と「言葉」で示すビジョンだった。2010年9月、デザインテーマ「魂動-Soul of Motion」を発表。それを体現するコンセプトカーとして「靭」(SHINARI)を公開した。
このデザイン哲学により、フォード時代の遺産を引きずる社内の抵抗を乗り越え、新たなデザインプロセスを確立した功績は、現在も高く評価されている。
魂動-Soul of Motion発表時のプレスリリースで、前田氏は次のように語っている。
マツダデザインは、これまでも動きの表現を常に追求してきました。私たちはそれをさらに進化させてゆく中で、生物が見せる一瞬の動きの強さ、美しさや緊張感に注目しました。こうした見る人の魂を揺さぶる、心をときめかせる動きを私たちは“魂動−Soul of Motion”と名付けました。私たちはこの“魂動−Soul of Motion”を今後のマツダ車のデザインテーマとして、強い生命感と速さを感じる動きの表現を目指します。(一部抜粋)
さらに、マツダのブランディングサイトでも魂動は次のように説明されている。
このクルマは、単なる鉄の塊ではありません。それは「命あるもの」だとマツダは考えます。ドライバーとクルマの関係を、まるで愛馬と心を通わせるかのように、エモーショナルなものにする。そのための造形を追い求めつづけるのが、マツダの「魂動デザイン」です。マツダの次世代デザインはこの「魂動デザイン」をさらに深化させ、日本の美意識を礎とした「新たなエレガンス」の表現を追求していきます。
魂動が指すのは、野生動物の動きに込められた生命感に着想を得た造形美である。この思想は、ご神体と呼ばれる立体造形の制作から始まる。ご神体はチームで共通するイメージの核となり、各モデルの随所に造形的なモチーフとして織り込まれている。
この造形哲学は、古来の日本的な美意識とも深く重なる。「引き算の美」「無駄の排除」に象徴されるミニマリズムがベースにある。速さや機能よりも先に“美しさ”を据えるという思想は、工業製品の枠を超えて、マツダ車に独自の存在感を与えている。
マーケティング部門ではなく、前田育男氏率いるデザイン本部がブランド戦略を担う体制は、自動車業界では異例である。一般的に自動車のデザインは、市場トレンドや消費者嗜好を踏まえて構築されることが多い。しかしマツダは、デザインを先行させ、市場の反応を“後付け”する手法にこだわってきた。この逆転の発想が、ブランド価値の確立につながった。
ビジョンモデル「靭」は、魂動の世界観を具現化したコンセプトカーである。マツダ車に共通するデザイン要素を先行して示し、魂動とは何かを市場に印象付ける役割を果たした。
こうした取り組みが投げかける問いは、製品が本質的に持つ「価値」とは何かという点にある。それはスペックや機能ではなく、言葉で語り尽くせない空気感のようなものである。
マツダブランドには文化と歴史が宿る。過去の代表的モデルを振り返ると、それぞれが、“作り手の哲学”を凝縮した存在であることが分かる。
2019年に発売されたMAZDA3は、国内で「アクセラ」と呼ばれていたモデルの後継車である。MAZDA3は、量産化を前提に「靭」のデザインを継承した次世代商品群の第一弾となった。この車をきっかけに、魂動デザインの深化が社内外にアピールされ、魂動とは何かを具体的に語る風土が醸成された。
以降、マツダは世界各国のモーターショーで出品車のデザイン性を高く評価されている。「静止していても動きを感じさせるデザイン」と称され、特に日本の伝統美を体現した造形が多くの共感を集めた。
このデザイン主導の成功体験は、マツダの組織内に連鎖反応をもたらした。部署間の協働体制が深化し、デザインを起点としたものづくり文化が社内に根付く契機となった。
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