三軒茶屋が「住みたい街」であり続ける理由 再開発が街の魅力を“奪わなかった”ワケMerkmal(1/3 ページ)

» 2025年08月02日 08時00分 公開
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 都市再開発への不満として、多くの人が挙げるのが「どこも同じような街になった」という感覚だ。タワーマンションとチェーン店が並ぶ東京の風景は、画一化の象徴でもある。

 そのなかで、三軒茶屋は異彩を放つ。東京都世田谷区東部に位置し、渋谷からの直線距離は約3キロメートル。電車ならわずか5分で到着する好立地にある。

 この街には、

  • 再開発の象徴である「キャロットタワー」
  • 闇市から発展した昭和の面影を残す「エコー仲見世商店街」

――が同時に存在している。ランドマークと闇市の記憶が交差する空間が、いまも日常として続いている。

 なぜ三軒茶屋では、開発と保全の共存が可能だったのか。その背景を探る。

三軒茶屋では、なぜ開発と保全の共存が可能だったのか(写真AC)

闇市からタワーまで 三茶の再開発はどう進んだ?

 三軒茶屋の起源は、江戸時代中期にさかのぼる。現在の国道246号にあたる大山道と、世田谷通りにあたる登戸道が交差する交通の要衝に位置していた。道中の休憩地として、信楽・角屋・田中屋の三軒の茶屋が並び、これが地名の由来となったとされる。

 三軒茶屋という呼称は、文化・文政期(1804〜1830年)にはすでに一般的なものとなっていた。この地は、かつて太子堂村、下馬引沢村、中馬引沢村などの一部で構成されていた。江戸近郊の農村地帯として機能しながら、大山詣での参詣客を迎える宿場的な役割も果たしていた。

 街道文化と農村的な風景が交差する土地として、三軒茶屋は地域的な基盤を築いていった。現在のように三軒茶屋が正式な町名として成立するのは、1932(昭和7)年の世田谷区発足後のことである。

 三軒茶屋が現在のような街へと変貌する契機は、1923(大正12)年の関東大震災にある。震災後の復興過程で、多くの被災者が郊外である世田谷区に移住した。世田谷区の人口は、1920年の3万9952人から1940年には約7倍の28万1804人へと急増している。急速な人口流入によって宅地化が進んだが、都市計画の整備は追いつかず、三軒茶屋では計画性を欠いた市街地が形成された。

 戦後には闇市が生まれ、地元密着型の商業地としてにぎわった。しかし1960年代に入り、街の風景は一変する。

  • 国道246号の拡幅:1964年
  • 東急玉川線の廃止:1969年
  • 首都高速の高架建設:1971年
  • 新玉川線の開業:1977年

――と、都市インフラの再整備が相次いだ。

 交通の利便性が向上し、渋谷や二子玉川の商業集積が進むなかで、三軒茶屋の集客力は相対的に低下。かつてのにぎわいは徐々に失われていった。1970年代初頭には再開発の構想も持ち上がったが、実現には至らなかった。

 転機は1970年代後半に訪れる。現在キャロットタワーが建つ地にあった世田谷郵便局が移転した。この跡地が再開発の起爆剤となる。商店会は郵政省に跡地の払い下げを要望。区による取得を強く働きかけた。行政側も三軒茶屋の拠点整備を喫緊の課題と捉え、用地取得に積極的に動いた。

 最終的に世田谷区は郵便局跡地の取得に成功し、都市整備公社とともに施工区域の40%超を占める大規模地権者となる。こうして、長らく足踏みしていた再開発の基盤が一気に整うこととなった。

住民の疑問が火をつけた、“再開発への違和感”

 郵便局跡地を核とする再開発、すなわち「三軒茶屋・太子堂四丁目地区第一種市街地再開発事業」の準備が本格化したのは1980年代初頭である。1981(昭和56)年には基本構想が策定され、1986年には地区全体の整備計画調査が実施。1988年8月、都市計画決定が正式に下された。

 だが、事態が動き始めた1988年、再開発計画は大きな転機を迎える。内容が初めて公にされると、地域住民から強い反発が起きた。

 同年2月の住民説明会で、再開発の詳細が明らかにされた。高層ビルの建設や商店街の一部取り壊しといった内容に対し、

  • 再開発で30階のビルができることにより、この街と街の住民にどのような利益があるのか明確に示してほしい
  • 地区全体の整備を考えた場合、三軒茶屋1丁目の計画がないのはおかしい

――といった疑問が噴出。住民による反対運動が組織され始めた。5月の説明会でも意見は平行線をたどり、事業の先行きには不透明感が漂った。流れが変わったのは6月の世田谷区都市計画審議会だった。

 ここで反対運動側の陳述が認められ、「大企業奉仕の業務ビルが地元住民の利益につながるとは思えない」といった意見が表明された。再開された議論では、計画の説明不足が相次いで指摘された。論点は大きく3つに整理できる。

(1)住民への説明不足

 行政と住民の認識に乖離があった。商店街関係者からも「話は聞いていたが中身は知らされていない」との声が上がった。ビルの高さや風害対策といった具体的な疑問に対する回答も欠けていた。

(2)手続き面での問題

 都市計画決定と施設計画が混同され、理解が進まなかった。公告縦覧から決定までの期間が短すぎたという指摘もあった。説明会も従来型の大規模形式では限界があり、「きめ細かい会合が必要」との意見が出た。

(3)住民参加の姿勢

 反対運動は開発そのものへの否定ではなく、手法や進め方への問題提起だった。住民は地域の未来を真剣に考え、対案を出し合っていた。そうした動きがまちづくりを前向きに動かすとする評価も出始めていた。

 特筆すべきは、審議会委員が住民の反対を「課題」ではなく、「参加型まちづくりへの機会」と捉えた点である。これは当時としては革新的な発想だった。

 最終的に「市街地再開発事業の事業化に当たっては、引き続き住民への周知に努めるとともに、周辺環境に十分配慮した施設計画を行うよう指導されたい。なお今後、事業者も周辺の住民と十分協議されるよう要望する」とする付帯意見が採択された。法的拘束力こそなかったが、この意見が区の制度設計に影響を与え、住民参加型の都市開発の出発点となった。

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