なぜ吉祥寺に「吉祥寺」は存在しないのか? 歴史が育てた“住みたい街”の謎を解くMerkmal

» 2025年08月10日 08時00分 公開
[猫柳蓮ITmedia]
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 いつもにぎわっている町、吉祥寺(東京都武蔵野市)。

 リクルートが毎年行っている「SUUMO住みたい街ランキング」で、吉祥寺は上位によくランクインしている。2025年4月に発表された「SUUMO住みたい街ランキング2025 首都圏版」では3位を獲得した。ちなみに1位は横浜(JR京浜東北線)、2位は大宮(JR京浜東北線)である。

 吉祥寺は新宿と渋谷という大きなターミナル駅に直結していることに加え、個性的な店が多い。これらの分かりやすい魅力が多いことが、上位に選ばれた理由と考えられる。

いつもにぎわっている町、吉祥寺の人気の背景は?(ゲッティイメージズ)

 さらに、吉祥寺の人気にはいくつかの背景がある。一つは、街のなかに自然と都市の利便性が共存していることだ。井の頭恩賜公園は駅からすぐの場所にあり、散歩やピクニックが楽しめる緑豊かな空間として、多くの人に親しまれている。また、駅周辺には商業施設や雑貨店、古着屋、カフェが集まり、若者から高齢者まで幅広い世代のニーズに応えている。

 生活インフラも整っており、交通の便だけでなく、医療機関や教育施設も充実している。こうした住環境のバランスの良さが、「住みたい街」としての評価を支えている。あえてマイナス面を挙げるとすれば、人気の店がいつも混雑していることくらいだ。それも吉祥寺の特徴といえる。

街のにぎわいを生むのは? 駅・商店街・公園がつなぐ導線

 吉祥寺は、東京都武蔵野市の東部に位置するエリアである。吉祥寺駅を中心に発展してきた。もとは農村地帯であったが、1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに、東京市内から多くの人々が移り住んだ。その結果、住宅地として急速に成長した。

 昭和期に入ると、商業施設や学園の建設が進んだ。こうして吉祥寺は、郊外型の住宅都市としての性格を強めていった。

 1960年代には、旧国鉄中央線の高架化と複々線化に合わせて、都市計画が本格的に始まった。吉祥寺駅を中心とする再開発である。この計画は、東京大学の研究室が手掛けた案を基に進められた。東西南北の軸に沿って大型商業施設が配置されたことで、駅周辺の利便性は大きく向上した。

 この再開発により、街は回遊性を持つ商業拠点として整備された。

  • サンロード
  • ハモニカ横丁

――など、個性ある商店街とともに、にぎわいをつくり出した。

 駅周辺には高級住宅街も広がっている。住みやすさと買い物の便利さを兼ね備えた街として、評価が定着している。さらに、井の頭恩賜公園や三鷹の森ジブリ美術館など、文化や自然に触れられる施設も近くにある。そのため、住民だけでなく観光客にも人気の高い場所となっている。

 こうした経緯を経て、吉祥寺は東京郊外を代表する街の一つへと成長した。

「吉祥寺」の名はどこから来たのか?

 なぜこの町が「吉祥寺」と呼ばれているのか。その理由を不思議に思う人は多い。特に地方から東京に来た人の中には、「この町には、かつて吉祥寺という寺があったのだろう」と考える者もいる。門前町だったのではないかと思う人もいるだろう。

 しかし、実際に吉祥寺の町を歩いても、その名の寺は見つからない。では、なぜ町の名だけが今も残っているのか。

 理由の一つとして、明治時代に起きた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を想像する人がいる。これは、明治の初めに全国で行われた仏教排斥の運動である。

いつもにぎわっている町、吉祥寺の人気の背景は?(ゲッティイメージズ)

 当時の政府は、神道を国の中心に据える方針を掲げ、神仏分離政策を進めた。その結果、仏教は時代遅れで外国的な宗教とみなされ、多くの寺院や仏像、経典が破壊された。寺の財産が没収され、僧侶が強制的に俗人に戻された例もあった。

 この運動によって、日本の仏教界は大きな打撃を受けた。多くの歴史的文化財もこの時期に失われた。のちに仏教の価値が見直され、廃仏毀釈は誤りだったとされるようになった。

 しかし、吉祥寺という寺が完全に失われたわけではない。実際には今も存在している。ただし、それは吉祥寺駅のある武蔵野市ではなく、「文京区本駒込」にある。

歴史と利便性が交差する本駒込の魅力

 本駒込は、文京区の北側にある町である。一丁目から六丁目までの区域に分かれ、住居表示もすでに実施されている。

 江戸時代には、各藩の下屋敷や武家屋敷が多く建てられた。明治以降は、政財界の要人がこの地に邸宅を構えた。現在でも山手線内屈指の高級住宅街とされている。町内には、駒込富士神社や駒込天祖神社など、由緒ある寺社が点在している。東京の中心部にありながら、自然が多く残された地域である。

 交通の便もよい。東京メトロ南北線の本駒込駅と、JR山手線の駒込駅が利用できる。旧白山通り、本郷通り、不忍通りが交差する上富士前交差点を中心に町が広がっている。

 本駒込には、特別名勝に指定された「六義園(りくぎえん)」がある。江戸時代に、徳川五代将軍・綱吉の側用人だった柳沢吉保が、和歌の世界を庭園で表現することを意図して造園した。明治期には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎がこの庭園を購入し、後に東京都に寄贈した。春になると枝垂桜が咲き誇り、ライトアップされた景観が人々を引きつける。

 六丁目には「大和郷(やまとむら)」という高級住宅街がある。大和郷会という社団法人が町会を組織し、初代名誉郷長には若槻禮次郎(第25代・28代内閣総理大臣)が就任した。正田美智子(現・上皇后)も學習院を受験するため、この地に一時住んだことがある。さらに、加藤高明、幣原喜重郎、鳩山邦夫といった歴代総理大臣もここに住んでいた。

 1998(平成10)年には、不忍通り沿いに文京グリーンコートが完成した。オフィス棟と住宅棟を兼ね備えた複合施設であり、商業施設や飲食店も整備されている。歴史と自然、そして都市機能が調和した町である。

 その本駒込に、「諏訪山吉祥寺」という寺がある。江戸時代には、ここに仏教の学問所「旃檀林(せんだんりん)」が置かれていた。これは、現在の駒澤大学の前身とされ、当時は1000人を超える僧侶が学んでいたと伝えられている。

 この寺の起源は1458(長禄2)年にさかのぼる。江戸城を築いた太田道灌(1432〜1486年)が井戸を掘ったとき、「吉祥増上」と刻まれた金印を発見した。それをきっかけに、城内に小さな堂を建て、吉祥寺と名づけたことが始まりとされている。

明暦の大火がもたらした転機

 初代の吉祥寺は現在の千代田区、和田倉門付近にあった。徳川家康が江戸城の改築を始めると、「神田台(現在の水道橋駅付近)」へ移転した。だが、1657年(明暦3)年に江戸の大部分を焼き尽くした「明暦の大火」で寺は全焼した。明暦の大火は江戸三大大火のなかでも最大で、日本史上最大の火事とされる。別名「振袖火事」としても知られている。

 伝承によれば、振り袖を着た女性が相次いで亡くなり、その振り袖を供養するために本郷の本妙寺の住職が護摩の火にくべたところ、風にあおられて火が舞い上がり火事が始まったとされる。しかし、この話は当時すでに作り話と否定されていた。

 この大火で吉祥寺は移転を余儀なくされた。江戸城本丸も焼失し、幕府は城の周囲に防火用の広い空地(火除地)を設けることにした。御三家の屋敷も移転し、周辺の寺院も移転を命じられた。

 こうして吉祥寺は文京区本駒込に移った。しかし問題となったのは周囲の住民だった。移転前の吉祥寺は由緒ある寺として多くの参拝客が訪れ、門前町も賑わっていた。だが移転先には参拝客や門前町の人々が移る場所がなかった。

 そこで、元の住民たちに与えられたのが現在の吉祥寺周辺の土地だった。この土地はもともと幕府の萱場(かやば)、つまり牛や馬の飼料用の草を刈る場所だった。幕府はこの土地を五年の期限で扶持米や建築費用を貸し出す条件で希望者を募った。

 移住した人々は土地を開墾した。元々水の便がよくなかったが、玉川上水が開通したことで五日市街道沿いは有望な農地となり人気を集めた。

吉祥寺の発展を支えた「土地割り」

 こうして移住した人々は、昔の土地にちなんで「吉祥寺村」と名付けた。これが現在の吉祥寺地域の基礎となる。

 初期の吉祥寺は、東は現在の杉並区と練馬区の境界まで、また西はJR三鷹駅付近から南北にのびる三鷹通りの間まで広がっていた。農業が地域経済の中心であり、大麦や小麦の大規模な栽培が行われていた。今も吉祥寺周辺の道路が「短冊形」に整備されていることは、昔の農地の区画の名残である。

 この区画は農地開発の段階で土地を分け、効率よく利用するために作られたものである。後の都市開発でも、この構造は交通の動きや土地利用の最適化に影響を与えた。

 したがって、これらの歴史と空間の構造を理解することは、現代の吉祥寺を多面的に知り、その発展を考えるうえで重要である。

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